董卓による破壊的インフレ

董卓が五銖銭を改鋳して小銭を作り、これが粗悪な通貨だったことから、高インフレを招いたことは数多く言及されている。だが董卓が鋳潰したのは五銖銭だけではない。 『三国志』魏書董二袁劉伝では「悉椎破銅人、鐘虡,及壞五銖錢。更鑄為小錢」といい、銅人…

樊噲冠

『後漢書』輿服志下に「樊噲冠」なるものの解説がある。 樊噲冠,漢將樊噲造次所冠,以入項羽軍。廣九寸,高七寸,前後出各四寸,制似冕。司馬殿門大難衞士服之。或曰,樊噲常持鐵楯,聞項羽有意殺漢王,噲裂裳以裹楯,冠之入軍門,立漢王旁,視項羽。 漢の…

中国の記録にみえる銅鼓

銅鼓は日本では東京や九州の国立博物館などで実物を見ることができるが、中国南部から東南アジアにかけて存在していた楽器である。 『後漢書』馬援伝に「援好騎,善別名馬,於交阯得駱越銅鼓,乃鑄為馬式,還上之」とあり、ヴェトナムの徴側・徴弐の乱を鎮圧…

唐の酅国公

『旧唐書』高祖紀武徳元年六月癸未条に「封隋帝為酅國公」とあり、武徳二年五月己卯条に「酅國公薨,追崇為隋帝,諡曰恭」とある。西暦618年の唐の建国を受けて、隋の恭帝楊侑が唐の酅国公に封ぜられ、翌年に亡くなっていることを示している。 『新唐書』宰…

甘藷

「甘藷」といえば、さつまいものことで、新大陸原産の農作物のひとつである。中国では16世紀末に栽培がはじまったらしい。 ところが賈思勰『斉民要術』巻第十に「南方草物狀曰甘藷二月種至十月乃成卵大如鵝卵小者如鴨卵掘食蒸食其味甘甜經久得風乃淡泊異物…

はじめての中国史SF選集

このところ劉慈欣『三体』がベストセラーになり、『折りたたみ北京』『月の光』のようなアンソロジーが刊行されて、中国SFが近年の日本でも紹介されはじめております。そういう時代に出ましたこれ。『移動迷宮―中国史SF短篇集』(中央公論新社)中国史SF…

琅邪王氏も陳郡謝氏も侯景の乱で滅んではいない

なお、南朝の貴族制は梁の武帝の末年に起こった侯景の乱によって大打撃を受け、南朝貴族の最高の地位を占めていた王氏や謝氏など、永嘉の乱後に江南に渡った北来貴族の多くが滅んだとされる。窪添慶文『北魏史』(東方書店)p.262 ダウトです。琅邪王氏も陳…

火井

魏晋以前には蜀郡臨邛県に火井があり、その井の火で塩が煮られていたらしい。この火井については、油井であるとか、天然ガス田であるとか、現代的な解釈はいろいろある。唐代以降、その伝承をもとに邛州火井県が置かれている。 『博物志』巻二に「臨邛有火井…

日本・南海は越の分枝という説

唐の徐堅の編纂による類書『初学記』巻八嶺南道第十一に「地理志云今蒼梧蔚林合浦交趾九真日本南海皆粤分」とある。参考として訳をつけると、 『地理志』にいう。今の蒼梧*1・蔚林*2・合浦*3・交趾*4・九真*5・日本・南海*6はみな粤(越)の分かれたものであ…

蒙恬造筆のこと

晋の崔豹『古今注』雑注第七に「世稱,蒙恬造筆,何也,答曰,蒙恬始造,即秦筆耳,以枯木爲管,鹿毛爲拄,羊毫爲被,所謂蒼毫,非兎毫竹管也」といって、秦の蒙恬が初めて筆を造ったという記述が見える。『史記』孔子世家に「至於為春秋,筆則筆,削則削」…

「西陽蛮」

六朝時代の「西陽蛮」は西陽郡の「蛮」、つまりは当時の少数民族であったといっていいだろう。西陽郡は現在の湖北省の東部、黄岡市あたりに置かれた郡である。『宋書』夷蛮伝によると廩君の後裔とされ、西陽郡に巴水・蘄水・希水・赤亭水・西帰水があったた…

梁の武帝の愉快な囲碁仲間たち

梁の武帝蕭衍は囲碁が大好きで、夜から朝方までやめなかったと言われています。「高祖性好棊,每從夜達旦不輟」(『梁書』陳慶之伝) そのワザマエはプロ級でした。「六藝備閑,棊登逸品」(『南史』梁本紀中) そんな武帝の囲碁仲間はどんな人物たちだった…

「竟陵八友」を疑う

『梁書』武帝紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,高祖與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並遊焉,號曰八友」とあり、『南史』梁本紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,帝與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並游焉,號曰八友」とある。…

中国の幕府

『史記』建元以来侯者年表に「給事大将軍幕府」という役職についた人物が何人か見える。「杜延年,以故御史大夫杜周子,給事大將軍幕府」「燕倉,以故大將軍幕府軍吏發謀反者騎將軍上官安罪有功」「楊敞,家在華陰,故給事大將軍幕府,稍遷至大司農,為御史…

名状しがたき中国史

始皇三十七年、秦の始皇が最後の東方巡行に向かい、長江の渡しから海上に入り、北は琅邪に上陸した。このとき始皇は海神と戦う夢を見たが、この夢を占った博士はこれを「悪神」であると断言した。非凡なる始皇は之罘で海神の徒である巨魚を射殺したと伝わる…

兵馬俑を製作した陶工の名

円城塔の連作短編小説『文字渦』に始皇帝陵兵馬俑を製作した陶工についてフィクショナルなことが書かれていたりしますが、実際にはそうした陶工について、兵馬俑本体に刻まれるかたちで80人ほどの名が判明しております。第一類:「宮」+名パターン宮疆、…

始皇帝はいった「東南に天子の気がある」と

初唐成立の『南史』宋本紀上に「皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿丹徒間有天子氣者也」(宋の武帝劉裕の父の劉翹の墓が丹徒県の候山にあった。その地は『秦史』のいうところの曲阿と丹徒のあいだで、天子の気のあったところである)という一節がありま…

『人口の中国史』批判その2

読了したので、https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2020/09/18/084005のつづきです。 p.57「西暦一世紀に王朝が西北部に遠征しなくなったことは」 班超の存在が無視されていますね。 p.64「後漢よりも晋朝の版図は縮小し、東北部や西北部、内陸部が抜け…

『人口の中国史』批判

上田信『人口の中国史――先史時代から19世紀まで』(岩波新書)を読んでいるのですが、些末なところでツッコミどころが多くなかなか進みません。とりあえず覚え書きとして吐き出しておきます。 p.12「東に向かった群は、東地中海沿岸を経てヨーロッパに到達す…

河陰の変の犠牲者たち

河陰の変は北魏の末期に晋陽を拠点としていた軍閥の爾朱栄が発動した政変で、武泰元年(西暦528年)四月十三日に発生しました。北魏の霊太后や幼主が黄河に沈められたのを皮切りに公卿以下2000人あまりが殺害されたとされています。以下はその犠牲者のリスト…

清華簡「楚居」をテキトーに訳してみた

季連が初めて隈山(騩山)に降り 、𥤧竆(穴窮)にいたった。前に喬山(驕山)に出て、爰波(爰陂)を宅処とした。汌水をさかのぼり、方山を居処とする盤庚の子と会見した。その娘は妣隹といい、人心を掌握しており、四方に名声が轟いていた。季連は彼女と結…

歴史の有用性とは

歴史語りとは、もちろんそれは話題とする歴史を探求する営為にほかならないのだが、同時に話者の文化と言語の可能性を拡張する営為でもありうる。 ……とか格好よくいうと、すでに過去の先賢のアフォリズムの中にありそうな気もする。過去の言語を、ミームを、…

最近の漢籍電子テキスト事情2020年版

以前にも同様のテーマで書いたことはあるのだが、内容がだいぶ古びてしまったので、稿を新たに書こうと思う。なお使用料が必要とか授権使用とか面倒くさいあたりのところは当方は関知しないのであしからず。 台湾中央研究院漢籍電子文献資料庫 http://hanji.…

『山月記』の袁傪が将軍だった件

中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとな…

内史騰は韓の降将なのか

Wikipedia日本語版「内史騰」記事を読んでいたら、現行版(2020-08-05T15:24:26の版)に「紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。」と書かれていました。 中文版の「內史騰」記事にも、「秦王政十六年…

河東蜀、絳蜀、赤水蜀、あるいは常敗の河東薛氏の経営術

「蜀」というと、現在の四川省成都市一帯に置かれた蜀郡や現在の四川省の簡称としての蜀といった地名、あるいは秦に滅ぼされた古蜀や三国の蜀漢、五代十国の前蜀・後蜀などの国号のいくつかが思い浮かぶ。いずれも成都一帯の土地と紐つけられているには違い…

唐代に現れた漁火

「漁火」は夜間の漁で魚を集めるために焚かれる火のことだが、「漁火」の語が現れるのは唐代のこと。『全唐詩』を引くと、趙冬曦(677-750)の「和尹懋秋夜游𥖹湖二首」に「鶴聲聒前浦,漁火明暗叢」 といい、錢起(722?-780)の「送元評事歸山居」に「水宿…

537年の危機

西暦535年に起こったインドネシアのクラカタウ火山の噴火によって世界的な寒冷化と飢饉が発生したという説があるのですが、https://honz.jp/articles/-/1456https://gigazine.net/news/20181222-worst-year-in-human-history/https://en.wikipedia.org/wi…

長陵に移住した六国の王族たち

『史記』劉敬列伝に劉敬(婁敬)の発言として「臣願陛下徙齊諸田,楚昭、 屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中」と見える。劉敬は戦国時代の六国の王族の後裔や豪傑名家を関中に移住させるよう提言している。匈奴対策と関中強化を名目としているが、…

苻洪の改姓

『晋書』苻洪載記によると、前秦の祖の苻洪の本姓は蒲であり、讖文に「艸付應王」とあり、またその孫の堅の背に「艸付」の字があったことを理由に、永和六年(350年)に苻氏に改姓したとされている。この改姓の理由は怪しい。 『三国志』蜀書後主伝の建興十…