『人口の中国史』批判

 上田信『人口の中国史――先史時代から19世紀まで』(岩波新書)を読んでいるのですが、些末なところでツッコミどころが多くなかなか進みません。とりあえず覚え書きとして吐き出しておきます。

p.12「東に向かった群は、東地中海沿岸を経てヨーロッパに到達する。西に向かった群は、アラビア半島の西岸から南岸へ、そしてペルシア湾へと、魚介類を主な食料として人口を増やしながら、生息域を拡げていった」
 人類の出アフリカの話ですが、常識的に考えて「東に向かった群」と「西に向かった群」が東西逆でしょう。同ページの「海岸沿いに西に進んだヒトは、インド亜大陸へと広がり」も東西間違っているのが痛いです。

pp.43-44「現在の広東の南越国を滅ぼすために、江西から広東のあいだの分水嶺を掘りぬいて、霊渠と呼ばれる運河を建設して、大軍を送り込み、現在のヴェトナム北部までを版図に加えた」
 いやこれ秦代の話として書かれてるんですが、趙佗の「南越国」は秦が滅んでから建てられてるんですがね。秦が霊渠を開鑿した話は『史記』平津侯主父列伝に「又使尉他屠睢將樓船之士南攻百越,使監祿鑿渠運糧,深入越,越人遁逃」とあるのが根拠で、嶺南は秦代には「百越」の地ですがな。

p.51「浙江省の南部には東甌、福建省には閩越国という百越と総称される政権が自立していた。武帝の時代に二つの国のあいだで抗争があった。朝廷のなかで、この紛争に介入すべきか否かという議論もあったが、結局、手出ししないで終わった」
 ええと『史記』東越列伝を読んでください。漢は荘助を派遣して東甌を救援してますがな。このとき東甌は国を挙げて江淮の間に徙民してますがな。同書の漢興以来将相名臣年表によると、建元三年(紀元前138年)のことで、東甌王は廬江郡に居住したことになっています。東越列伝にもどると、元鼎六年(紀元前111年)には漢の横海将軍韓説が派遣されて閩越国後継の東越国が滅んでおり、東越の民も江淮の間に徙されています。ここは人口史とも関わってるので、テーマ的にも痛い誤認ですよね。

同ページ「雲南省貴州省などでも、もとからその地に住んでいた民族の人口を、王朝が把握することはなかった」
 『史記西南夷列伝によると、元封二年(紀元前109年)に武帝巴蜀の兵を動員して労濅と靡莫を撃滅し、滇国を降し、益州郡を置いているので、それはどうかなと思います。『漢書』地理志上によると、益州郡の戸口は81946戸、580463口となっております。というか、p.50に挙げられてる「西暦2年の戸口統計」表でも雲南省貴州省の数字出てますよね。

 いちいちこの調子では疲れるので、いったん締めます。個人的には魏晋南北朝あたりの信用できない人口統計の数々が語られることを期待していたので、そのへんが軽く流されたあたりで読むモチベーションは下がっており、最後まで読まないかもしれません。