長陵に移住した六国の王族たち

 『史記』劉敬列伝に劉敬(婁敬)の発言として「臣願陛下徙齊諸田,楚昭、 屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中」と見える。劉敬は戦国時代の六国の王族の後裔や豪傑名家を関中に移住させるよう提言している。匈奴対策と関中強化を名目としているが、旧六国の首脳を当地から引き剥がすことで、その復活を防ぎ、秦末の乱の再現を阻止しようとしたものだろう。劉敬の案は漢の高祖劉邦に採用された。『史記』高祖本紀の高祖九年の条に「是歳,徙貴族楚昭、屈、景、懷、齊田氏關中」というから、紀元前198年に移住は実行された。

 『漢書』地理志下ではこのことを「漢興,立都長安,徙齊諸田,楚昭、屈、景及諸功臣家於長陵」と言っている。長陵県は漢の高祖劉邦の陵墓の地であり、六国の王族たちが漢の初代皇帝の墓守にされるという皮肉も感じられる。

 『漢書外戚伝に「臧兒更嫁為長陵田氏婦,生男蚡、勝」とあり、ここの「長陵田氏」は漢初に長陵県に移住させられた「齊諸田」のことだろう。武帝のときに丞相に上った田蚡も斉の田氏の子孫だったことになる。『漢書』車千秋伝によると、昭帝のときに丞相に上った車千秋は「本姓田氏,其先齊諸田徙長陵」であるという。

 『後漢書』第五倫伝によると、章帝のときに司空に上った第五倫は「京兆長陵人」であり、「其先齊諸田」と明記されている。『後漢書』趙岐伝によると、『孟子章句』や『三輔決録』で知られる趙岐は「京兆長陵人」である。『後漢書王允伝によると、相国の鍾繇の下で長史をつとめた趙戩は「長陵人」である。

 晋代のころには、すでに長陵県は廃止されており、六国の王族の子孫を史料から追うことはできなくなる。後漢末以来、社会の流動性が極端に高まっており、当地にとどまり続ける者も少なくなっていたことだろう。