二王後三恪

 『漢書』王莽伝中に「周以舜後并杞、宋為三恪也」とあり、周代には舜の後裔と杞(夏の後裔)と宋(殷の後裔)を三恪としていたという。いっぽう『三国志』魏書崔林伝は「周武王封黃帝、堯、舜之後,及立三恪」とあり、周の武王は黄帝・堯・舜の後裔を三恪に立てたといっている。『北斉書』孝昭帝紀に「但二王三恪,舊說不同」とあって、二王三恪について旧説に混乱があることを認めている。
 『新唐書玄宗紀によると、唐の玄宗は天寶七載に「魏周隋為三恪」とし、天寶九載に「商周漢為三恪」とし、天寶十二載に「復魏周隋為三恪」とするなど、制度をころころ変えている。唐を漢の継承王朝とみなすか、隋の継承王朝とみなすかのあいだで揺れ動いたのだが、隋の継承王朝とみなす立場で決着する。『新唐書』王勃伝によると、楊国忠が右相となったときに魏を三恪とし、周・隋を二王後とし、酅国公と介国公の旧封を戻させたのだという。
 『旧五代史』梁書太祖紀四によると、唐代には後魏の元氏の子孫である韓国公を三恪とし、北周の宇文氏の子孫を介国公とし、隋の楊氏の子孫を酅国公とすることで、二王後としていた。五代の後梁は開平2年12月に唐室の李氏の子孫の李嵸を萊国公とすることで、酅国公・萊國公を二王後とし、介國公を三恪とするよう改めたという。

 北魏西魏の元氏の子孫である韓国公については、『周書』明帝紀に「(明帝二年九月)甲辰,封少師元羅為韓國公,以紹魏後」とあり、元羅という人物が北周の明帝により韓国公に封ぜられ、魏の後を嗣いだことになっている。この元羅は北魏武帝の子の陽平王拓跋煕の子の南平王拓跋渾の子の南平王拓跋霄の子の江陽王元継の子にあたる。
 『周書』武帝紀上に「(天和三年)八月乙丑,韓國公元羅薨」「(天和四年五月己丑)封魏廣平公子元謙為韓國公,以紹魏後」とあり、元羅の死後は、元謙という人物が韓国公となっている。元謙は西魏の十二大将軍のひとりである広平公元賛の子とされる。北魏の孝文帝の玄孫にあたる。
 ところで唐代には張仁亶・張仁愿・苗晋卿・魚朝恩・魚弘志ら元氏以外の人物が韓国公となっているのが目立つ。『新唐書』宰相世系表五下によると、元謙の後は元菩提・元寶琳が国公位を世襲し、元昭・元穎・元庭珍と続いたが、元伯明の代に韓公を嗣ぎ、元紹俊・元文贄が公位を世襲していることになっている。宰相世系表の史料的評価が高くないこともあいまって、矛盾を妙に整理しないほうが良いのかもしれない。後考を待つ。

 北周の宇文氏の子孫の介国公については、『周書』静帝紀に「隨王楊堅稱尊號,帝遜于別宮。隋氏奉帝為介國公,邑萬戶」とあり、『隋書』高祖紀上に「(開皇元年二月)己巳,以周帝為介國公,邑五千戶,為隋室賓」とある。
 『周書』の1万戸、『隋書』の5000戸と封邑数に矛盾があるが、北周最後の皇帝である静帝が隋初に介国公に封ぜられたのは間違いないところだろう。同じく『隋書』高祖紀上に「(開皇元年五月)辛未, 介國公薨」とあり、『周書』虞國公仲子興伝に「及靜帝崩,隋文帝以洛為介國公,為隋室賓云」とある。
 静帝の死後、宇文洛という人物が隋の介国公になる。この宇文洛という人は北周の太祖宇文泰の父の宇文肱の従父兄の宇文仲の子の宇文興の子という続柄で、北周の皇室からいうと傍流もいいところであったりする。
 『旧唐書』穆宗紀に「(元和十五年正月)甲寅,二王後介國公宇文仲達卒」とあるように、二王後として唐代にも庇護されていた。

 隋の楊氏の子孫の酅國公についてはhttps://nagaichi.hatenablog.com/entry/2021/08/21/112938
にかつて書いたことがあるので、繰り返さない。

 かつて戦国時代や魏晋南北朝時代といった戦乱の時代には、先代の王朝の皇族を根絶やしにし、敵対国家の祭祀を断絶させる暴力が横行した。「二王後三恪」の制度は先代の王朝の皇族を現王朝の諸侯として庇護することで、いつの日か滅びる自身の王朝の将来の祭祀をも庇護しようとした中国王朝の悲しい知恵であったといえるかもしれない。