唐の酅国公

 『旧唐書』高祖紀武徳元年六月癸未条に「封隋帝為酅國公」とあり、武徳二年五月己卯条に「酅國公薨,追崇為隋帝,諡曰恭」とある。西暦618年の唐の建国を受けて、隋の恭帝楊侑が唐の酅国公に封ぜられ、翌年に亡くなっていることを示している。
 『新唐書』宰相世系表一下楊氏条は、楊侑の後を楊行基が嗣いで酅公となり、その後を楊棻が嗣いで酅公となり、その後を楊幼言が嗣いで酅公となったとする。
 「酅国公墓誌」によると、楊柔は字を懐順といい、恭帝の孫であり、酅国公行基の子である。かれは永昌元年すなわち689年に55歳で亡くなっている。これは宰相世系表の楊棻と同一人物とみなすべきだろう。
 『新唐書』王勃伝は「玄宗下詔以唐承漢,黜隋以前帝王,廢介、酅公」といい、唐を周・漢の後継とし、隋を閏統とする崔昌らの議論を受けて、玄宗がいったん酅国公位を廃したらしい。
 『旧唐書玄宗紀下天宝十二載夏五月乙酉条に「以魏、周、隋依舊為三恪及二王後,復封韓、介、酅等公」というから、753年に酅国公位が復活したらしいことが分かる。
 同書穆宗紀元和十五年夏四月乙酉条に「三恪酅國公楊造卒」とあり、820年に酅国公の楊造という人物が亡くなっている。また敬宗紀宝暦元年八月戊申条に「以酅國公楊造男元湊襲酅國公,食邑三千戶」とあり、825年に楊造の子の楊元湊が酅国公位を襲封している。
 『冊府元亀』巻173は、酅国公楊元湊の大和五年すなわち831年の上奏文を収録している。「臣先祖隋文帝等陵四所在鳳翔一所在揚州兩所在京兆府准去年四月九日勑二王後介國公先祖陵例每陵每月合給看守丁三人鳳翔府已蒙給丁其京兆府及揚州未蒙准勑旨詔各令州府准元勅處分」という。これは隋の先祖の陵墓が鳳翔府に4カ所、揚州に1カ所、京兆府に2カ所あって、鳳翔府の陵墓には援助があるが、揚州と京兆府の陵墓には援助がないことを訴えた内容である。
 『新唐書』昭宗紀天復元年四月丙子条に「介公、酅公後予一子九品正員官」とあるから、901年のことだが、「酅公後」が微妙である。酅公の後裔と素直に取れば、酅国公位がすでに存在しなかった可能性もあるが、おそらく変わらず存在したとみるべきだろう。
 『旧五代史』梁書太祖四開平二年十二月条に「隋朝楊氏子孫為酅國公」とあり、五代の後梁にも酅国公位が引き継がれているからである。以下、出典は省くが、後唐の楊仁矩・楊延紹、後晋の楊延寿といった人物が両五代史にみられる。
 最後に『長安志』巻10次南長寿坊条に「街北之西酅國公楊温宅」とあるのを付記しておくが、この楊温がいつの人物かははっきりしない。