北斉高氏が鮮卑である6つの理由
姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局,2007)pp.146-148に北斉高氏の出自を考証されているので紹介します。姚薇元はまず『魏書』官氏志の「是楼氏が後に改めて高氏となった」を引き、『通志』氏族略や『古今姓氏書弁証』の「是婁氏が改めて高氏となった」を挙げています。「楼」と「婁」は同音異訳であるといいます。高歓の曾祖父の高湖は漢の太傅の高裒の後裔とされていますが、漢代を扱った史書には太傅の高裒という人物はいないと姚薇元は指摘しています。
姚薇元は高斉がもとは鮮卑族の出身であることを6つの証拠を挙げて説明しているので、ここは端折らずに訳出しておきます。
1.『北斉書』巻24杜弼伝に「顕祖(文宣帝高洋)がかつて杜弼に『国を治めるには何人を用いるべきか』と訊ねたことがあった。杜弼は『鮮卑は車馬の客であり、必ず中国人を用いなければなりません』と答えていった。顕祖はこの言葉は自分を謗ったものであるとみなした」とある。高洋は自ら鮮卑人と認めていた。これが高斉が鮮卑族である証の一である。
2.『北斉書』巻2神武紀下に「侯景はもともと世子(高澄)を軽んじており、かつて司馬子如に『王(高歓)がいれば、わたしはあえて異をなすことはないが、王がいなければ、わたしは鮮卑の小児と事を共にすることはできない』といったことがあった」とある。侯景は高澄を鮮卑の小児と罵っている。これが高斉が鮮卑族である証の二である。
3.『北斉書』巻5廃帝紀に「廃帝高殷は、文宣帝の長子である。母は李皇后(趙郡の李希宗の娘)といった。文宣帝はことあるごとに『太子は漢家の性質を得ており、わたしに似ていない』と言っていた」とある。高洋は自ら漢家ではないと言っている。これが高斉が鮮卑族である証の三である。
4.『北斉書』巻9文宣李后伝に「趙郡の李希宗の娘である。初め太原公夫人となった。文宣帝が中宮を建てようとしたとき、高隆之と高德正は『漢族の婦人は天下の母となることができません。改めてふさわしい配偶者を選んでください』といった」とある。漢族の婦人は帝后となることができない。これが高斉が鮮卑族である証の四である。
5.『北斉書』巻34楊愔伝に「常山王(高演)が楊愔らを捕らえて官に入れたが、まだ刑戮していなかった。廃帝(高殷)は『天子がどうしてあえてこの漢輩を惜しもうか。これらは叔父の処分に任せたい』といった」とある。高殷は楊愔らを漢輩としてしりぞけている。これが高斉が鮮卑族である証の五である。
6.『隋書』巻22五行志服妖類に「後斉の文宣帝末年、帝はたびたび胡服を着て、市里をしのび歩きした。斉氏は陰山に出自しており、胡服を着るのは、もとの服に返ろうとするものである」とある。斉氏は陰山の出自で、もとは胡服を着ていた。これが高斉が鮮卑族である証の六である。
以上6つの証拠をもって、姚薇元は北斉高氏が鮮卑であるとし、もとの姓は是婁としています。その先祖は慕容燕から北魏に帰順し、高氏に改めたとしています。隋の吏部侍郎の高孝基や唐の宰相の高士廉らもみなもとは鮮卑族だというのです。最後に私見を述べておくと、高歓からして軍中では鮮卑語で話していた(『北斉書』巻21高昂伝)といわれる人であるので、姚薇元説は自然な説でしょう。Wikipedia日本語版が「高句麗人出身」とか書いているのが付会珍説の類かと思いますね。