2022-01-01から1年間の記事一覧

秦は楚を荊と呼んだ

史記三家注のひとつ『史記正義』周本紀に「秦諱楚,改曰荊」(秦は楚を避諱して、荊と改めていった)とある。 やはり史記三家注のひとつ『史記集解』白起王翦列伝に「徐廣曰秦諱楚故云荊也」(『史記音義』の著者の徐広がいうには、秦は楚を避諱したため、荊…

洪武帝が殺していなかった人物

趙翼『廿二史箚記』巻三十二の「明初文字之禍」条は、黄溥『閒中今古録』を引いて、 杭州教授徐一夔賀表,有「光天之下,天生聖人,為世作則」等語,帝覽之大怒曰「生者僧也,以我嘗為僧也;光則薙髮也;則字音近賊也。」遂斬之。 杭州教授徐一夔の上表に「…

サルが土牛に乗る話

唐の徐堅『初学記』巻二十九猴第十五に「郭頒魏晉世語曰,司馬宣王辟周泰為新城太守,鍾毓謂泰曰,君釋褐登宰府,乞兒乘小車,一何駃,泰曰,君明公之子,少有文彩,故守吏職,獼猴乗土牛,一何遲,衆賓悦服」とある。 司馬懿が周泰を召し出して新城太守とし…

骸骨を乞う

漢籍史料に頻出する表現で、「乞骸骨」というのがあり、辞職を願い出るという意味である。大仰に見えるが、老骨を返していただきたいという謙譲表現である。初めて読む現代人は面食らうだろうが、漢籍史料を読むときの重要度は極めて高く、必須知識といって…

秦の妃

唐の徐堅『初学記』巻10儲宮部太子妃第四に「周以天子之正嫡爲王后,秦稱皇帝因稱皇后,以太子之正嫡稱妃,漢因之」(周は天子の正妻を王后とし、秦が皇帝を称すると、皇帝の正妻を皇后と称した。太子の正妻を妃と称し、漢はこれを継承した)とある。宋の李…

周鼎泗水伝説

『春秋左氏伝』宣公三年に「楚子伐陸渾之戎,遂至于雒。觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉」(楚の荘王が陸渾の戎を伐ち、雒にまでいたった。周の疆域で兵を観閲した。周の定王は王孫満を派遣して荘王を労わせた。荘王は周の鼎の大小軽…

中国の僧旻

遠山美都男『新版大化改新』(中公新書)を読んでいたら、p.202に 「僧+某」という僧名は南北朝時代の中国に多く見られたものであった。仏教信仰に傾斜して王朝を滅ぼしたと言われる梁(南朝第三の王朝)の武帝に仕えた僧侶の僧旻は有名である。「国博士」…

白司馬坂の大像

『仏祖統紀』巻39「久視元年四月,詔斂天下僧尼日一錢,作大像於白司馬坂」『資治通鑑』巻207長安四年夏四月条「太后復稅天下僧尼,作大像於白司馬阪,令替官尚書武攸寧檢校,糜費巨億」『旧唐書』張廷珪伝「則天稅天下僧尼出錢,欲於白司馬坂營建大像。廷珪…

「分配」はたぶん和製漢語じゃない

漢語的には動詞的用法しかないことと、「分けて配る」だけではなく、「分けて配置する」「分けて派遣する」の意味も持っていることには注意が必要だが、古い漢籍に用例は多数あり、和製漢語と主張するのは苦しい。もちろん名詞的用法が古典には存在しなかっ…

曹触竜と左師触竜

『荀子』臣道篇に「若曹觸龍之於紂者可謂國賊矣」という一節がある。金谷治訳注『荀子(上)』(岩波文庫)p.292の訳を引くと、「曹触竜が殷の紂王にとりいっ〔て亡国におとしいれ〕たのなどは国賊というべきである」とある。 また『荀子』議兵篇に「微子開…

曹魏南部君墓誌

君諱陵,字子皐,天水冀人也。以漢建安八年春正月七日癸巳生,魏景初三年夏五月十二日丙申遭疾而卒,年卅有七,冬十有二月葬于此土。君之祖父,故上計掾,察茂才,四城令,張掖太守。伯父武陵□城太守。父舉孝廉賢良方正,察茂才,高平令,司空府闢舉茂才,槐…

陳慶之は頑張りすぎたという話

陳慶之の北伐について、以前Twでテキトーに語った(騙った)ログまとめ。 元顥を立てて北伐したときの陳慶之は7000人ほどを率いてたことになってる。実数が正しいかどうかは分からないけど、陳慶之の将軍号の「飈勇将軍」は『隋書』百官志上の序列を見る限り…

どうして肉を食わないのか

『晋書』孝恵帝紀に「及天下荒亂,百姓餓死,帝曰,何不食肉糜」(天下が混乱し、民衆が餓死するにおよんで、恵帝は「どうして肉粥を食わないのか」といった)とあるのはそれなりに知られているが、 『金史』世宗紀に「遼主聞民間乏食,謂何不食乾腊」(遼主…

『建康実録』の倭国記事

巻十「(義熙九年)十二月高句麗倭國及西南夷銅頭太師並獻方物」、413年巻十二「(元嘉二十年十二月)百濟倭國使使貢獻」、443年「(元嘉二十八年)秋七月甲辰進安東將軍倭王綏濟為安東大將軍」、453年巻十三「(大明四年十二月)丁未倭國遣使貢獻」、460年…

内史騰=辛勝説

鶴間和幸『新説始皇帝学』(KANZEN)が出ています。ムック本の体裁なのですが、秦の統一前後の時代について近年の出土史料にもとづく新研究をフォローしているので、かなり読み応えのある内容です。 さて、これのp.172に「中国の歴史家の馬非百は、騰…

北魏と百済の戦争はあったのか

5世紀後半に北魏と百済のあいだに戦争があったとする史書の記述がある。『南斉書』東夷伝「是歳,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之」(この年、北魏は騎兵数十万を発して百済を攻め、国境地帯…

武媚娘曲と武則天

某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。— NAGAI…

中国史ポリコレを考える

「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がなかった頃から中国の歴史的呼称にはさまざまな批判が加えられてきたもので、とくに中華思想に関わる語に関してはやや慎重に扱われてきたとは言える。 現代では「四夷」すなわち「東夷」・「南蛮」・「西戎」・「…

韓王安の捕縛と韓の滅亡

荊州胡家草場漢簡「歳記」に「十六年,始為麗邑,作麗山。初書年。破韓得其王,王入吳房」(1538号簡)「十七年十二月,太后死。五月,韓王来。韓入地于秦」(1535号簡)といった記述があり、紀元前231年(始皇16年)に秦が韓を破り、その王を捕らえて呉房(…