紫式部の父、北宋へ??

榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)を斜め読みしていたら、p.223に「『宋史』「日本伝」には、十世紀に越前に渡来した宋の商人、羌(周)世昌が当時の漢学者として知られた藤原為時(紫式部の父)の漢詩を「言葉こそ多いが浅薄だ」と評した記録がある」と…

皇后の「崩」

「崩」は辞書的には天子の死、帝王の死を指すことになっているが、皇后や皇太后の死去のさいにも使われている。皇帝の母や妃嬪が皇后や皇太后に追尊されたケースも含まれている。 「而王太后後孝景帝十六歲,以元朔四年崩,合葬陽陵」(『史記』外戚世家、孝…

「泥のように眠る」の「泥」はたぶん海中生物です

はてな匿名ダイアリーの「泥のように眠る」の「泥」は生物のことなのか?https://anond.hatelabo.jp/20240308231551の記事(以下、増田記事と略す)が面白かったので、少し調べてみました。 まずは最古の漢字字典といわれる後漢の許慎『説文解字』巻十一上、…

二王後三恪

『漢書』王莽伝中に「周以舜後并杞、宋為三恪也」とあり、周代には舜の後裔と杞(夏の後裔)と宋(殷の後裔)を三恪としていたという。いっぽう『三国志』魏書崔林伝は「周武王封黃帝、堯、舜之後,及立三恪」とあり、周の武王は黄帝・堯・舜の後裔を三恪に…

北斉高氏が鮮卑である6つの理由

姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局,2007)pp.146-148に北斉高氏の出自を考証されているので紹介します。姚薇元はまず『魏書』官氏志の「是楼氏が後に改めて高氏となった」を引き、『通志』氏族略や『古今姓氏書弁証』の「是婁氏が改めて高氏となっ…

侯莫陳氏と白水郡

侯莫陳相の父の斛古提は「朔州刺史、白水郡公」であったという(『北斉書』侯莫陳相伝)。 侯莫陳相自身も北斉の天保七年春正月辛丑に「白水郡王」に封ぜられている(『北史』斉紀中)。 侯莫陳悦は北魏の建明中に車騎大将軍、渭州刺史に任じられ、爵位を白…

東魏安平王始末

『北斉書』宋遊道伝に「魏安平王坐事亡、章武二王及諸王妃・太妃是其近親者皆被徵責」とある事件については良く分かっていない。「魏安平王」とはおそらく北魏の後廃帝の子の元黄頭のことであり、「章武二王」は章武王元景哲ともうひとりの誰かのことではな…

蒙塵

「蒙塵」というと、唐の玄宗が安史の乱に際して長安を捨てて蜀に蒙塵したのが有名ですが、史書に見える蒙塵の例はもちろんそれだけではありません。 『後漢書』荀彧伝で荀彧が曹操に語る言葉の中に「天子蒙塵」とあり、これは後漢の献帝が董卓によって長安に…

「砲」と「炮」

「てっぽう」というと、亭主の世代は石偏の「鉄砲」で習ったものだが、最近は日本史界隈を中心に火偏の「鉄炮」で書かれることも増えてきたように思う。 近世の中国の火器の「ほう」はどうなのかというと、石偏の「砲」や「礮」で書かれたものが多そうだ。火…

秦は楚を荊と呼んだ

史記三家注のひとつ『史記正義』周本紀に「秦諱楚,改曰荊」(秦は楚を避諱して、荊と改めていった)とある。 やはり史記三家注のひとつ『史記集解』白起王翦列伝に「徐廣曰秦諱楚故云荊也」(『史記音義』の著者の徐広がいうには、秦は楚を避諱したため、荊…

洪武帝が殺していなかった人物

趙翼『廿二史箚記』巻三十二の「明初文字之禍」条は、黄溥『閒中今古録』を引いて、 杭州教授徐一夔賀表,有「光天之下,天生聖人,為世作則」等語,帝覽之大怒曰「生者僧也,以我嘗為僧也;光則薙髮也;則字音近賊也。」遂斬之。 杭州教授徐一夔の上表に「…

サルが土牛に乗る話

唐の徐堅『初学記』巻二十九猴第十五に「郭頒魏晉世語曰,司馬宣王辟周泰為新城太守,鍾毓謂泰曰,君釋褐登宰府,乞兒乘小車,一何駃,泰曰,君明公之子,少有文彩,故守吏職,獼猴乗土牛,一何遲,衆賓悦服」とある。 司馬懿が周泰を召し出して新城太守とし…

骸骨を乞う

漢籍史料に頻出する表現で、「乞骸骨」というのがあり、辞職を願い出るという意味である。大仰に見えるが、老骨を返していただきたいという謙譲表現である。初めて読む現代人は面食らうだろうが、漢籍史料を読むときの重要度は極めて高く、必須知識といって…

秦の妃

唐の徐堅『初学記』巻10儲宮部太子妃第四に「周以天子之正嫡爲王后,秦稱皇帝因稱皇后,以太子之正嫡稱妃,漢因之」(周は天子の正妻を王后とし、秦が皇帝を称すると、皇帝の正妻を皇后と称した。太子の正妻を妃と称し、漢はこれを継承した)とある。宋の李…

周鼎泗水伝説

『春秋左氏伝』宣公三年に「楚子伐陸渾之戎,遂至于雒。觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉」(楚の荘王が陸渾の戎を伐ち、雒にまでいたった。周の疆域で兵を観閲した。周の定王は王孫満を派遣して荘王を労わせた。荘王は周の鼎の大小軽…

中国の僧旻

遠山美都男『新版大化改新』(中公新書)を読んでいたら、p.202に 「僧+某」という僧名は南北朝時代の中国に多く見られたものであった。仏教信仰に傾斜して王朝を滅ぼしたと言われる梁(南朝第三の王朝)の武帝に仕えた僧侶の僧旻は有名である。「国博士」…

白司馬坂の大像

『仏祖統紀』巻39「久視元年四月,詔斂天下僧尼日一錢,作大像於白司馬坂」『資治通鑑』巻207長安四年夏四月条「太后復稅天下僧尼,作大像於白司馬阪,令替官尚書武攸寧檢校,糜費巨億」『旧唐書』張廷珪伝「則天稅天下僧尼出錢,欲於白司馬坂營建大像。廷珪…

「分配」はたぶん和製漢語じゃない

漢語的には動詞的用法しかないことと、「分けて配る」だけではなく、「分けて配置する」「分けて派遣する」の意味も持っていることには注意が必要だが、古い漢籍に用例は多数あり、和製漢語と主張するのは苦しい。もちろん名詞的用法が古典には存在しなかっ…

曹触竜と左師触竜

『荀子』臣道篇に「若曹觸龍之於紂者可謂國賊矣」という一節がある。金谷治訳注『荀子(上)』(岩波文庫)p.292の訳を引くと、「曹触竜が殷の紂王にとりいっ〔て亡国におとしいれ〕たのなどは国賊というべきである」とある。 また『荀子』議兵篇に「微子開…

曹魏南部君墓誌

君諱陵,字子皐,天水冀人也。以漢建安八年春正月七日癸巳生,魏景初三年夏五月十二日丙申遭疾而卒,年卅有七,冬十有二月葬于此土。君之祖父,故上計掾,察茂才,四城令,張掖太守。伯父武陵□城太守。父舉孝廉賢良方正,察茂才,高平令,司空府闢舉茂才,槐…

陳慶之は頑張りすぎたという話

陳慶之の北伐について、以前Twでテキトーに語った(騙った)ログまとめ。 元顥を立てて北伐したときの陳慶之は7000人ほどを率いてたことになってる。実数が正しいかどうかは分からないけど、陳慶之の将軍号の「飈勇将軍」は『隋書』百官志上の序列を見る限り…

どうして肉を食わないのか

『晋書』孝恵帝紀に「及天下荒亂,百姓餓死,帝曰,何不食肉糜」(天下が混乱し、民衆が餓死するにおよんで、恵帝は「どうして肉粥を食わないのか」といった)とあるのはそれなりに知られているが、 『金史』世宗紀に「遼主聞民間乏食,謂何不食乾腊」(遼主…

『建康実録』の倭国記事

巻十「(義熙九年)十二月高句麗倭國及西南夷銅頭太師並獻方物」、413年巻十二「(元嘉二十年十二月)百濟倭國使使貢獻」、443年「(元嘉二十八年)秋七月甲辰進安東將軍倭王綏濟為安東大將軍」、453年巻十三「(大明四年十二月)丁未倭國遣使貢獻」、460年…

内史騰=辛勝説

鶴間和幸『新説始皇帝学』(KANZEN)が出ています。ムック本の体裁なのですが、秦の統一前後の時代について近年の出土史料にもとづく新研究をフォローしているので、かなり読み応えのある内容です。 さて、これのp.172に「中国の歴史家の馬非百は、騰…

北魏と百済の戦争はあったのか

5世紀後半に北魏と百済のあいだに戦争があったとする史書の記述がある。『南斉書』東夷伝「是歳,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之」(この年、北魏は騎兵数十万を発して百済を攻め、国境地帯…

武媚娘曲と武則天

某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。— NAGAI…

中国史ポリコレを考える

「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がなかった頃から中国の歴史的呼称にはさまざまな批判が加えられてきたもので、とくに中華思想に関わる語に関してはやや慎重に扱われてきたとは言える。 現代では「四夷」すなわち「東夷」・「南蛮」・「西戎」・「…

韓王安の捕縛と韓の滅亡

荊州胡家草場漢簡「歳記」に「十六年,始為麗邑,作麗山。初書年。破韓得其王,王入吳房」(1538号簡)「十七年十二月,太后死。五月,韓王来。韓入地于秦」(1535号簡)といった記述があり、紀元前231年(始皇16年)に秦が韓を破り、その王を捕らえて呉房(…

斬白蛇剣

秦の始皇帝は阿房宮や酈山陵(始皇帝陵)の造営のために隠宮徒刑の者七十万人あまりを動員した(『史記』秦始皇本紀始皇三十五年条)。ちなみに隠宮とは従来は宦官のこととされていたが、隠官の誤写で刑期を終えた人を指すという新説が生まれている。https:/…

孝悌力田に爵位を賜う

ぼく梁の武帝蕭衍。孝悌力田に爵一級を賜うのが大好き。『梁書』武帝紀中天監十三年二月丁亥条「孝悌力田賜爵一級」『梁書』武帝紀中天監十八年春正月辛卯条「孝悌力田賜爵一級」『梁書』武帝紀下普通元年春正月乙亥朔条「孝悌力田爵一級」『梁書』武帝紀下…