北魏と百済の戦争はあったのか

 5世紀後半に北魏百済のあいだに戦争があったとする史書の記述がある。
『南斉書』東夷伝
「是歳,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之」
(この年、北魏は騎兵数十万を発して百済を攻め、国境地帯に進入した。百済王牟大は将軍の沙法名・賛首流・解礼昆・木干那に兵を率いさせて派遣し、魏軍を襲撃して、これを大いに破った)
 「是歳」は文脈的には南朝斉の「建武三年」、つまりは西暦496年のこととなる。北魏の孝文帝の太和20年に相当する。ただこの前段に文章の脱落があるのではないかという議論があり、はっきりはしていない。

『建康実録』巻十六
「永明二年,魏虜征之,大破百濟王牟都」
(永明二年、魏軍が百済を討ち、百済王牟都を大いに破った)
 南朝斉の「永明二年」は西暦484年のこととなる。北魏の孝文帝の太和8年に相当する。ここの「百濟王牟都」は「百濟王牟大」の誤りではないかとの指摘もある。

資治通鑑』巻一百三十六
「魏遣兵擊百濟,為百濟所敗」
(魏が兵を派遣して百済を撃ち、百済に敗れた)
 永明六年の記事である。西暦488年のこととなる。北魏の孝文帝の太和12年に相当する。

 これらの戦いは実際にあったのだろうか。北魏東魏の断代史である『魏書』は、対百済の戦闘行動をいっさい記録していない。百済は主に南朝と通交していたので、広く見れば北魏の敵ではあろうが、そもそも通説的には北魏百済は国境を接していない。海路を取れば別だが、大軍を渡海させるような艦隊を北魏保有していない。

 ここで登場するのが遼西に百済の飛び地領土があったという説である。
宋書東夷伝
「其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣」
(その後高驪が遼東をほぼ領有し、百済が遼西をほぼ領有した。百済の治所は晋平郡晋平県といった)
梁書』諸夷伝および『南史』夷貊伝下
「晉世句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡」
(晋代に句麗が遼東を領有すると、百済もまた遼西・晋平二郡の地に拠り、自ら百済郡を置いた)

 5世紀後半の遼西に百済の領土があったとするなら、北魏百済のあいだの戦争をいちおう説明可能である。しかしこれはほとんど信用できない。仮に晋代の一時期に百済の遼西領有に実態があったのだとしても、4世紀後半には後燕に、5世紀初頭には北燕に遼西は領有されている。西暦436年に北魏の娥清・古弼らの遠征によって北燕が滅ぼされ、遼西は北魏の領有に帰している。西暦460年(和平元年)に北魏の文成帝は遼西に巡幸している(『魏書』礼志四之一)し、西暦497年(太和21年)に陸叡が獄死するとその妻子が遼西に移されていたりする(『魏書』陸叡伝)。5世紀後半の遼西に百済の領土が存在したなら、このようなことは不可能だったろう。南朝系史料に記録された北魏百済のあいだの戦争は、南朝百済の外交関係から生まれた虚妄だったとみるべきだろう。