某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。
某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2022年8月13日
『旧唐書』后妃伝上に「天后未受命時,天下歌武媚娘」とあり、『新唐書』后妃伝上に「天后世,歌武媚娘」とあり、『新唐書』五行志二に「永徽後,民歌武媚娘曲」とあって、武媚娘という曲が唐の高宗期以降に歌われたことが分かります。
『旧唐書』后妃伝上に「天后未受命時,天下歌武媚娘」とあり、『新唐書』后妃伝上に「天后世,歌武媚娘」とあり、『新唐書』五行志二に「永徽後,民歌武媚娘曲」とあって、武媚娘という曲が唐の高宗期以降に歌われたことが分かります。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2022年8月13日
ただ武媚娘の原曲が則天と関係ないのは間違いありません。『旧唐書』と『新唐書』の李綱伝によると、隋の開皇末年に皇太子楊勇の宴会で太子左庶子の唐令則が琵琶を鳴らして武媚娘の曲を歌っています。李綱は「淫声」としてこれを非難しています。まだ生まれていない則天のことを歌えるわけがありません。
ただ武媚娘の原曲が則天と関係ないのは間違いありません。『旧唐書』と『新唐書』の李綱伝によると、隋の開皇末年に皇太子楊勇の宴会で太子左庶子の唐令則が琵琶を鳴らして武媚娘の曲を歌っています。李綱は「淫声」としてこれを非難しています。まだ生まれていない則天の曲を歌えるわけがありません。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2022年8月13日
南北朝時代の文人の庾信に「武媚娘詩」というのがあって、「眉心濃黛直㸃額角輕黄細安」という引用が残っていますが、武媚娘の曲との関連はよく分かりません。これも時代的に則天のことを詠んでいるとは考えられません。
南北朝時代の文人の庾信に「武媚娘詩」というのがあって、「眉心濃黛直㸃額角輕黄細安」という引用が残っていますが、武媚娘の曲との関連はよく分かりません。これも時代的に則天のことを詠んでいるとは考えられません。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2022年8月13日
もしかしたら武媚娘の曲は唐の高宗のころに則天待望のプロパガンダソングとして改詞改作されて広められたのかもしれませんが……、憶測はほどほどにしておきます。
もしかしたら武媚娘の曲は唐の高宗のころに則天待望のプロパガンダソングとして改詞改作されて広められたのかもしれませんが……、憶測はほどほどにしておきます。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2022年8月13日
則天に武媚と賜号したのは唐の太宗であって(『新唐書』后妃伝上)、媚は則天の諱・実名・幼名といった類のものではありません。媚娘呼称も曲名としてしか史料に出てきません。これは強調しておいたほうが良さそうです。
則天に武媚と賜号したのは唐の太宗であって(『新唐書』后妃伝上)、媚は則天の諱・実名・幼名といった類のものではありません。媚娘呼称も曲名としてしか史料に出てきません。これは強調しておいたほうが良さそうです。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2022年8月13日