紫式部の父、北宋へ??

 榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)を斜め読みしていたら、p.223に
「『宋史』「日本伝」には、十世紀に越前に渡来した宋の商人、羌(周)世昌が当時の漢学者として知られた藤原為時紫式部の父)の漢詩を「言葉こそ多いが浅薄だ」と評した記録がある」
とありました。

 しかし『宋史』日本伝の該当部分をみると、「越前」も「藤原為時」も出てきません。

咸平五年,建州海賈周世昌遭風飄至日本,凡七年得還,其與國人滕木吉至,上皆召見之。世昌以其國人唱和詩來上,詞甚雕刻膚淺無所取。詢其風俗,云婦人皆被髮,一衣用二三縑。又陳所記州名年號。上令滕木吉以所持木弓矢挽射,矢不能遠,詰其故,國中不習戰鬥。賜木吉時裝錢遣還。

そこで石原道博編訳『新訂旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(岩波文庫)pp.110-111を見てみると、

咸平五年(第三代真宗、一条長保四年・一〇〇二)、建州(福建建甌)の海賈(貿易商人)周世昌が風に遭ってただよい日本に至った。およそ七年たって還ることができた。その国人滕木吉(藤原為時説もある)とともに来朝した。上(真宗)はみなこれを召見した。世昌はその国人唱和の詩(「君吾が風俗を問う、吾が風俗最も淳なり。衣冠は唐の制度、礼楽は漢の君臣。玉甕は新酒を蒭し、金刀は細鱗を剖く。年々二、三月、桃李一般の春」をさすか)をもって来てたてまつった。詞は、はなはだ雕刻(彫刻、ほりきざむ・ほりつける、みがかれている)だけれども、膚淺(うすっぺら・あさはか、浅薄・膚薄)であって取るところはない。その風俗を詢うと、いうには「婦人はみな束髪にし、一衣に二・三縑(かとりぎぬ)を用いる」と。また、記すところの州名・年号を陳べた。上(真宗)は、滕木吉に持っている木弓矢を挽射(ひく・いる)させた。矢は遠くとぶことができなかった。その故を詰ると、「国中、戦闘を習っていない」という。木吉に時装(その時代流行の装い)・銭を賜わり、遣わし還した。

とありました。滕木吉=藤原為時説というのがあるのですね。しかしそれだと藤原為時越前国司の任を放り出して、北宋の都東京開封府に入朝して真宗の謁見を受けたことになるのでは……?日本史畑の議論はよく分からないですが、荒唐無稽すぎないでしょうか。どういう経緯でこの説が生まれたのか、情報提供いただければ幸いです。

 あとは蛇足です。石原訳『宋史日本伝』が括弧注釈で引いている詩は
本朝一人一首 卷之十
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/hc11/hc1110.htm
に載っていました。

457.上宋真宗皇帝
君問吾風俗 吾風俗最淳 衣冠唐制度 禮樂漢君臣
王甕蒭新酒 金刀剖細鱗 年年二三月 桃李一般春
 林子曰:『月令廣義』曰:「宋真宗朝,日本國人滕木吉朝,獻詩。云云。」滕木吉,未知為何人。按此詩,與嗐哩嘛哈所作一二句異,而其餘大抵相同。未知孰是。嘛哈詩見下段。薛氏『日本考略』亦載此詩,不記作者,蒭字作藏,其餘與『廣義』同。
滕木吉【月令廣義】

 滕木吉の詩として扱われていて、もちろん藤原為時の影も形もありませんね。