「てっぽう」というと、亭主の世代は石偏の「鉄砲」で習ったものだが、最近は日本史界隈を中心に火偏の「鉄炮」で書かれることも増えてきたように思う。
近世の中国の火器の「ほう」はどうなのかというと、石偏の「砲」や「礮」で書かれたものが多そうだ。火偏の「炮」の用例は火器に使われるものももちろんあるが、漢方薬に対して使われるもののほうが多いように思われる。
秦は楚を荊と呼んだ
史記三家注のひとつ『史記正義』周本紀に「秦諱楚,改曰荊」(秦は楚を避諱して、荊と改めていった)とある。
やはり史記三家注のひとつ『史記集解』白起王翦列伝に「徐廣曰秦諱楚故云荊也」(『史記音義』の著者の徐広がいうには、秦は楚を避諱したため、荊といったのだ)ともある。こちらは『史記』白起王翦列伝の本文に「秦使翦子王賁擊荊」(秦は王翦の子の王賁に荊を撃たせた)と記述されていることを受けての注釈である。
秦の始皇帝の父にあたる荘襄王の諱が子楚といったので、「楚」字が避諱されるのは当然だったわけだ。楚と荊は同じいばらの意味を持つことから、代用されたと考えられている。
楚を郢と呼んだ例もある。
『戦国策』秦策四「或為六国説秦王章」に「郢威王聞之」(郢の威王がこれを聞くと)とあり、この郢の威王は楚の威王を指している。「郢楚都也,亦避始皇父諱楚」(郢は楚の都である。また始皇の父の諱の楚を避けている)と注釈されている。趙を邯鄲と呼び、魏を梁と呼び、韓を鄭と呼んだような例が想起されよう。
追記:
以上のようなことを書きなぐったその日のうちに、佐藤信弥先生から当然のツッコミご指摘を受けたことを付記しておく。
https://t.co/W42GJyrEm9
— さとうしん (@satoshin257) 2022年12月11日
代用されたというか、西周金文の時点で「楚荊」と呼称されてるから元々「荊」が楚の別称として定着していたのでは?
洪武帝が殺していなかった人物
趙翼『廿二史箚記』巻三十二の「明初文字之禍」条は、黄溥『閒中今古録』を引いて、
杭州教授徐一夔賀表,有「光天之下,天生聖人,為世作則」等語,帝覽之大怒曰「生者僧也,以我嘗為僧也;光則薙髮也;則字音近賊也。」遂斬之。
杭州教授徐一夔の上表に「光天の下、天は聖人を生み、世のために則を作った」などの語があったことから、洪武帝がこれを見て激怒して「生とは僧である。わたしがかつて僧であったことを示しているのだ。光とは髪を剃っていることだ。則の字は音が賊に近い」といって、ついに徐一夔を斬った。
とあるのだが、これは信用できないようだ。徐一夔の書いた「故文林郎湖広房県知県斉公墓誌銘」があり、この銘文によると、誌主の斉公は洪武戊寅(1398年)に死去しており、その翌年(1399年、建文元年)に葬られている。洪武帝に殺されていたなら、徐一夔にはこの文章を書くことができない。また『杭州府志』古今守令表によると、徐一夔は洪武六年から建文二年まで杭州教授をつとめているという。
https://www.sohu.com/a/484323070_121080230
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E4%B8%80%E5%A4%94
サルが土牛に乗る話
唐の徐堅『初学記』巻二十九猴第十五に
「郭頒魏晉世語曰,司馬宣王辟周泰為新城太守,鍾毓謂泰曰,君釋褐登宰府,乞兒乘小車,一何駃,泰曰,君明公之子,少有文彩,故守吏職,獼猴乗土牛,一何遲,衆賓悦服」
とある。
司馬懿が周泰を召し出して新城太守としたという下りに大いに引っかかるところだが、ここの周泰は州泰の誤りであるらしい。『太平御覧』巻九百十にも同様の引用があり、そこでは「司馬宣王辟州泰爲新城太守」とされている。『三国志』魏書鄧艾伝裴注所引世語は「初,荊州刺史裴潛以泰為從事,司馬宣王鎮宛,潛數遣詣宣王,由此為宣王所知。及征孟達,泰又導軍,遂辟泰。泰頻喪考妣祖,九年居喪,宣王留缺待之,至三十六日,擢為新城太守。宣王為泰會,使尚書鍾繇調泰,君釋褐登宰府,三十六日擁麾蓋,守兵馬郡。乞兒乘小車,一何駛乎。泰曰,誠有此。君,名公之子,少有文采,故守吏職。獼猴騎土牛,又何遲也。眾賓咸悅。後歷兗、豫州刺史,所在有籌算績效」とあって、より長い文章を引いており、こちらのほうが郭頒『魏晋世語』のオリジナルに近いのだろうが、こちらでは鍾毓ではなく鍾繇とされているあたり、注意が必要である。引用は繰り返されているうちに、どこかを誤らないではいられないらしい。
骸骨を乞う
漢籍史料に頻出する表現で、「乞骸骨」というのがあり、辞職を願い出るという意味である。大仰に見えるが、老骨を返していただきたいという謙譲表現である。初めて読む現代人は面食らうだろうが、漢籍史料を読むときの重要度は極めて高く、必須知識といっていい。「以老病乞骸骨」や「上疏乞骸骨」すら定型表現になっている。
『史記』項羽本紀
「范增大怒曰,天下事大定矣,君王自為之。願賜骸骨歸卒伍。項王許之」
『史記』平津侯主父列伝
「以病乞骸骨」
『漢書』五行志上
「後四年,根乞骸骨,薦兄子新都侯莽自代,遂覆國焉」
『三国志』呉書呉主伝
「年出七十,乃上疏乞骸骨,遂爰居章安,卒於家」
『晋書』王覧伝
「頃之,以疾上疏乞骸骨」
『晋書』華表伝
「數歳,以老病乞骸骨」
『北史』宋隠伝
「以老病乞骸骨,不許」
『旧唐書』高宗紀上
「八月甲午,右相許敬宗乞骸骨」
『旧五代史』晋書華温琪伝
「清泰中,上表乞骸骨歸宋城,制以太子少保致仕」
『明史』李仕魯伝
「還陛下笏,乞賜骸骨,歸田里」
秦の妃
唐の徐堅『初学記』巻10儲宮部太子妃第四に
「周以天子之正嫡爲王后,秦稱皇帝因稱皇后,以太子之正嫡稱妃,漢因之」
(周は天子の正妻を王后とし、秦が皇帝を称すると、皇帝の正妻を皇后と称した。太子の正妻を妃と称し、漢はこれを継承した)
とある。宋の李昉『太平御覧』巻149皇親部十五太子妃条にも同じ文が見える。
しかし、そもそも秦が皇帝を称した始皇帝と二世皇帝の代に確認できる太子は胡亥だけである。それも始皇三十七年七月丙寅に始皇帝が沙丘平台で死去した後に、遺詔の偽作によって胡亥が太子に立てられ、咸陽に帰って喪が発せられ、二世皇帝として即位するまでのあいだである(『史記』秦始皇本紀)。この短い期間に太子胡亥の正妻が妃として立てられていたのだろうか。
ちなみに統一以前の秦には、襄公・竫公・寧公・武公・康公・夷公・昭子・恵文君・安国君(孝文王)など複数の太子が確認できる(『史記』秦本紀)。しかし「妃」は確認できない。安国君(孝文王)の太子時代の正妻は華陽夫人と呼ばれた(『史記』呂不韋列伝)が、妃とは呼ばれていない。
秦の後宮のことは謎のベールにつつまれているが、秦の儲宮のことはさらに謎が深いと言わざるをえない。
阿房宮にハーレムのイメージがあるのは、杜牧「阿房宮賦」のせいなのかなあ。六国の妃嬪媵嬙を秦の宮人として阿房宮に入れたというような話を杜牧より前の文献から発見できずにいる。誰か教えて。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) 2021年9月8日
周鼎泗水伝説
『春秋左氏伝』宣公三年に「楚子伐陸渾之戎,遂至于雒。觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉」(楚の荘王が陸渾の戎を伐ち、雒にまでいたった。周の疆域で兵を観閲した。周の定王は王孫満を派遣して荘王を労わせた。荘王は周の鼎の大小軽重を王孫満に訊ねた)とある。紀元前606年のことで、「鼎の軽重を問う」の故事で今も知られるところである。洛邑(洛陽)に周の九鼎があることは当時よく知られていた。
『史記』周本紀によると、周の武王が南宮括と史佚に命じて九鼎宝玉をうつさせたというから、もしこれを信じるなら前11世紀から周の九鼎はあったことになる。周の成王は武王の遺志を継いで召公奭に命じて洛邑を造営させた。周公旦は卜で占って、洛邑の造営を終えると、九鼎をここに安置した。定王元年条には、楚の荘王が洛に宿営し、使者を派遣して九鼎を問わせたことがみえる。威烈王二十三年条には、九鼎が震え、韓・魏・趙に命じて諸侯としたとある。晋の三分に先立って「九鼎震」を記録するのは、凶兆とみなされたからだろう。王赧四十二年条では、秦が華陽の約を破ったため、馬犯が九鼎と引き換えに梁王(魏の安釐王)の救援を求めている。梁王は応諾して兵を派遣して周を守らせたというから、九鼎は魏に移されたのだろうか。しかし九鼎は魏には移されなかったようだ。王赧五十九年条には、王赧が死去すると、秦が九鼎宝器を奪取したというのである。『史記』秦本紀昭襄王五十二年条に「周民東亡,其器九鼎入秦」とあり、九鼎の秦による奪取を裏付ける。
『史記』秦始皇本紀始皇二十八年条には、「始皇還,過彭城,欲出周鼎泗水。使千人沒水求之,弗得」(始皇帝は巡幸の帰路に彭城を通過し、泗水から周鼎を出そうとした。千人を動員して水に潜らせてこれを求めたが、得ることはできなかった)とある。いつのまにか周鼎は泗水に沈んでいたことにされている。泗水は洛陽からみて東方にあり、洛陽から秦都咸陽に運ぶ途中に沈んだというような事情は考えられない。また洛陽から魏都大梁に運ぼうとして沈んだという事情も考えられない。泗水は大梁からもさらに東である。
史記三家注のひとつ『史記正義』はこの矛盾を「秦昭王取九鼎,其一飛入泗水,餘八入於秦中」(秦の昭王が九鼎を取り、そのうちのひとつが飛んで泗水に入り、残りの八個は秦中に入った)と説明するが、洛陽と泗水の距離を考えれば飛んで入るのは荒唐無稽すぎる。周の滅亡のどさくさに周鼎のひとつを東方に避難させようとして泗水に沈んだとするなら、もう少し合理的な説明になるが、どこに避難させようとして泗水に沈んだのだろう。泗水の先に有力な諸侯はおらず、考えにくい。泗水は漢の高祖劉邦の初期の根拠地であった沛県を通っており、周鼎泗水伝説は漢の高祖の出自を潤色するために作られた話のひとつと考えるほうがまだしもだろう。
『漢書』郊祀志上に望気者の新垣平の言葉として「周鼎亡在泗水中,今河決通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎」(周鼎は泗水の中に没しておりましたが、今は黄河が決壊して泗水と通じており、臣が望気したところ東北の汾陰県のそばに金宝の気があります。思うに周鼎がそこから出るということでしょう)とある。新垣平はのちに人を欺して玉杯を献上し、それが発覚して処刑された。詐欺師的人物の言葉であるにも関わらず、周鼎が汾陰県に移ったという話は信じられたようである。
『漢書』吾丘寿王伝によると、汾陰県で宝鼎を得て漢の武帝に献上され、群臣が「陛下が周鼎を得た」と口々に賞賛するなか、吾丘寿王はひとり「周鼎ではない」と主張した。武帝が寿王の発言を聞き捨てならないものと追及すると、寿王は周の徳に応じて出たのが周鼎であって、漢の徳に応じて出たものであるから漢鼎であるといって丸め込んだ。
周鼎泗水伝説がそもそも漢王朝の権威づけのために作られたものであるなら、汾陰県の宝鼎を漢鼎であると喝破した吾丘寿王は表面的に上手いことを言っただけに留まらないかもしれない。