唐の中宗が廃位後に房陵(現在の湖北省十堰市房県)に配流されたことは有名だが、秦から前漢にかけて、高貴な罪人を房陵に流す先例があったことはあまり知られていない。
「及奪爵遷蜀四千餘家,家房陵」(『史記』秦始皇本紀始皇九年条)
「廢明為庶人。遷房陵」(『史記』梁孝王世家)
「常山王舜薨。子㪍嗣立,有罪,廢徙房陵」(『漢書』武帝紀元鼎三年条)
「十二月,清河王年有罪,廢遷房陵」(『漢書』武帝紀地節四年条)
「四年夏,廣川王海陽有罪,廢遷房陵」(『漢書』宣帝紀甘露四年条)
「冬,河間王元有罪,廢遷房陵」(『漢書』元帝紀建昭元年条)
妖言令の廃止
『漢書』高后紀に「元年春正月,詔曰,前日孝惠皇帝言欲除三族辠、妖言令,議未決而崩,今除之」(高后元年(前187年)春正月、詔にいうには、過日孝恵皇帝が三族連座の罪と妖言令を除きたいとおっしゃられ、議論が決定しないうちに崩御されたので、今これを除く)とある。妖言令は世情を騒がす言論に厳罰を科す法令で、高后元年に廃止されたことがわかる。
ところが同書文帝紀に「五月,詔曰,(中略)今法有誹謗訞言之罪,(中略)此細民之愚,無知抵死,朕甚不取」とあり、文帝二年(前178年)時点では法に誹謗訞言の罪が規定されており、文帝は誹謗訞言の罪で庶民を死なせないように詔を下している。高后元年に廃止された妖言令がいつの間にか復活していた可能性もあるが、ここでの誹謗訞言の罪は王朝批判を処罰する別立てのものかもしれない。
なお漢の武帝・昭帝のころには、妖言の罪は復活していたようで、前漢初期の言論への寛容は長続きしなかったとみえる。
「唐朝不存在」論を笑いながら
唐王朝はなかった?、中国のネット上の一部で広がる奇妙な主張 - CNN
【千户】宋朝国祚800年,唐朝不存在 - Bilibili
そのものについての亭主の考えは、
唐王朝はなかった?、中国のネット上の一部で広がる奇妙な主張
- [トンデモ]
- [隋唐]
- [現代中国]
このトンデモ説を信じるには、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』などの史書はもちろん、唐代に成立した詩や小説、日本や朝鮮などの遣使記録も全否定しなければならないはずだが、そこまで考えてなさそう。
2026/08/20 19:26
にほぼ言い尽くしており、これ以上追撃する気もないわけですが。
ただこれをネタとして擦って楽しんでいるブコメにも古い偏頗な説に片足ツッコんでいるものがいささかあるようで。
下についった諸賢の言を引用しておきましょう。
学術的な内容は引用先で尽くされていますが、「唐は拓跋国家(鮮卑)である」というテーゼ自体中国大陸では張学鋒の「隋唐人の形成」という形で発展的に解消され、日本でも「ルーツに鮮卑の文化があることは間違いないがそれですべてを説明できはしない」とされているので、議論が十年遅れなんすよね https://t.co/fbvfx69Xrm
— 遊牧民 (@Historian_nomad) 2026年8月20日
張学鋒の「隋唐人の形成」を読めの一言で終わらせてもいいが、拓跋国家云々で多くを説明しすぎていたというのは日本でいうと十年以上前の風潮であり、その当時ですら「拓跋云々を過大評価しすぎでは?」という主旨の異論・疑問もあった。(唐王朝は無かったという陰謀論を見ての感想)
— るーでる@柏葉(※パロディです) (@rudel101) 2026年8月20日
あと過剰に政治的な裏読みをしている人もいますが、世の中にはアポロ11号は月に行ってないと信じる人もいれば、9・11陰謀論や地球平面説や原爆投下否定論を支持する人もいるので、どこの国にもそういう人は一部にいるものなのですよ。
不穀・寡人
中国の諸侯の自称(一人称)として不穀・寡人・孤が知られる。『礼記』曲礼下によると、「其在東夷、北狄、西戎、南蠻,雖大曰子。於內,自稱曰不穀。於外,自稱曰王老」といい、また「庶方小侯,入天子之國,曰某人。於外,曰子。自稱曰孤」といい、「諸侯見天子,曰臣某侯某。其與民言,自稱曰寡人」というような使い分けがあったとされる。
『春秋左氏伝』あたりを見ると、楚子(楚王)が「不穀」を自称している例がやや多い印象があるが、そこまではっきりと使い分けられているのか判然としない。というか、周王が「不穀」を自称している例もあるようにみえる。
必ずしも民とともに言っているとも思えないが、「寡人」の用例は多く、より後世まで使用されているようである。
明と日本国王
「源道義」(室町三代将軍足利義満)が明の永楽帝に「日本国王」に冊封されたことは日中関係史的に有名ですが、ほかにも明の書物で国王あつかいされた公方様はいるわけです。以下に挙げておきましょう。
源義持(足利義持、1418年) - 「次年𣶈還其國王源義持亦遣刺史奉表稱謝成祖特釋其罪」(『籌海図編』巻十二)
源義澄(足利義澄、1511年) - 「國王源義澄悦之至是與族人朱澄耳目為奸利厚賂閹瑾得賜飛魚服以帰居久之」(『罪惟録』列伝巻之三十六)
源義植(足利義植、1523年) - 「嘉靖二年再奉使至是時國王源義植孱不能御其酋諸酋争貢以邀互市及賞賚」(『東西洋考』巻六)
源義晴(足利義晴、1525年) - 「四年琉球貢使帰使轉諭日本國王捕送宗設及佐謀倡亂者㑹琉球使溺水而國王源義睛反附琉球來使為素卿乞宥并請復修貢献詔並釋之」(『罪惟録』列伝巻之三十六)
源義植(義晴の誤りか、1539年) - 「十八年國王源義植復以修貢請許之期以十年」(『明史紀事本末』巻五十五)
源義晴(足利義晴、1547年) - 「嘉靖二十六年十一月日本國王源義晴遣使周良等求貢故事倭夷十年一貢船不過三人不過周良等以四船六百人」(『礼部志稿』巻九十二)
源義晴(足利義晴、1549年) - 「嘉靖二十八年日本國王源義晴差正使周良等來朝貢方物」(『礼部志稿』巻九十)
源秀忠(徳川秀忠、1609年) - 「倭酋玄蘇平景直等賫國王源秀忠書欲假道朝鮮修貢」(『明史鈔略残』)
冊封を受けていたとは考えられない将軍も国王あつかいされていたことが分かって興味深いですね。なお上に挙げませんでしたが、『朝鮮王朝実録』に「源義敎」(足利義教)「源義成」(足利義政)「源義政」(同)を国王扱いしている例があるようです。
弘農楊氏の祖
弘農楊氏の祖を赤泉侯楊喜とする『後漢書』楊震伝の説には根強い批判がある。
しかし「楊震碑」(漢故太尉楊公神道碑銘)にも赤泉侯「楊熹」を族祖とするような記録が見える以上、少なくとも楊震と同時代には赤泉侯楊喜を弘農楊氏の祖とする認識が成立していたのだろう。
弘農楊氏の祖を赤泉侯楊喜とする系譜がもし粉飾だとすれば、誰が弘農楊氏の祖だと考えられるだろうか。たとえば秦将の楊端和(『史記』秦始皇本紀)や楊翁子(『淮南子』人間訓)、あるいは楊熊(『史記』高祖本紀)、秦の五大夫楊樛(『史記』秦始皇本紀)などであったら面白い。この場合、秦の出自を隠すことが粉飾の動機である。しかし言うまでもないが、これは弘農楊氏の祖を赤泉侯楊喜とする説以上に根拠がなく、妄想に属すると断っておく。
