『人口の中国史』批判その2

読了したので、
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2020/09/18/084005
のつづきです。

p.57「西暦一世紀に王朝が西北部に遠征しなくなったことは」
 班超の存在が無視されていますね。

p.64「後漢よりも晋朝の版図は縮小し、東北部や西北部、内陸部が抜け落ちている」
 『晋書』地理志上の平州の条には、「統縣二十六,戸一萬八千一百」とあり、同じく涼州の条には、「統郡八,縣四十六,戸三萬七百」とあります。西晋初期の時点で東北部の遼寧や西北部の甘粛の数字が抜け落ちていることのほうに、疑問を入れないといけないのではないですかね。

p.74「安禄山の出自は、西域の交易をになったサマルカンドのソグド人」
 安禄山はソグド人の父と突厥人の母のあいだに生まれていて、出生地は営州あるいはモンゴリアの大きく二説があります。実父の姓が「康」なので、父方が康国=サマルカンド出身なのではないかと言われているだけです。安禄山本人は実母の再婚相手の姓を名乗っているくらいなので、実父のルーツかもしれないサマルカンドにも関わりは薄かったのではないでしょうか。

pp.92-93「一二一一年に金朝を攻略してマンチュリアと華北の大半をその版図に加え」
 1211年のモンゴルの対金戦は居庸関を落として中都を攻撃したとか、群牧監を襲って馬を略奪したとか、そのレベルではなかったですかね。対金戦の最初の年で、攻略はそこまで進んでいません。大雑把な流れを示したいだけであれば、ここでは1234年の金滅亡の年を挙げるべきだったのではないでしょうか。1211年はp.90にも出てくるわけですし。

p.156「一七二七年には烏蒙土知府に対して、再三にわたって土司の公印を差し出すように命じたが、いうことを聞かなかったために、兵を派遣して制圧したうえに、いくつもの罪状を並べて、土知府を廃絶して地方官が治める威寧州に改めている」
 烏蒙府の改土帰流の話ですが、『清史稿』地理志二十一によると、烏蒙府は雍正九年(1731年)に昭通府と改められています。同書地理志二十二によると、康熙三年(1664年)に烏撒府が廃止されて威寧府と改められ、雍正七年(1729年)に威寧府は威寧州に降格しています。烏蒙府と威寧州は全く別の土地です。烏蒙府と烏撒府を勘違いでもしたのでしょうかね。

 全体としておかしなところは序章から第二章までに集中しており、本書のメインともいうべき第三章以降はさすがに重厚で素人批判を受け付けるようなところは少なそうです。だからといって第三章から読めとも勧めづらいので、前段の手を抜かないでほしいものです。

『人口の中国史』批判

 上田信『人口の中国史――先史時代から19世紀まで』(岩波新書)を読んでいるのですが、些末なところでツッコミどころが多くなかなか進みません。とりあえず覚え書きとして吐き出しておきます。

p.12「東に向かった群は、東地中海沿岸を経てヨーロッパに到達する。西に向かった群は、アラビア半島の西岸から南岸へ、そしてペルシア湾へと、魚介類を主な食料として人口を増やしながら、生息域を拡げていった」
 人類の出アフリカの話ですが、常識的に考えて「東に向かった群」と「西に向かった群」が東西逆でしょう。同ページの「海岸沿いに西に進んだヒトは、インド亜大陸へと広がり」も東西間違っているのが痛いです。

pp.43-44「現在の広東の南越国を滅ぼすために、江西から広東のあいだの分水嶺を掘りぬいて、霊渠と呼ばれる運河を建設して、大軍を送り込み、現在のヴェトナム北部までを版図に加えた」
 いやこれ秦代の話として書かれてるんですが、趙佗の「南越国」は秦が滅んでから建てられてるんですがね。秦が霊渠を開鑿した話は『史記』平津侯主父列伝に「又使尉他屠睢將樓船之士南攻百越,使監祿鑿渠運糧,深入越,越人遁逃」とあるのが根拠で、嶺南は秦代には「百越」の地ですがな。

p.51「浙江省の南部には東甌、福建省には閩越国という百越と総称される政権が自立していた。武帝の時代に二つの国のあいだで抗争があった。朝廷のなかで、この紛争に介入すべきか否かという議論もあったが、結局、手出ししないで終わった」
 ええと『史記』東越列伝を読んでください。漢は荘助を派遣して東甌を救援してますがな。このとき東甌は国を挙げて江淮の間に徙民してますがな。同書の漢興以来将相名臣年表によると、建元三年(紀元前138年)のことで、東甌王は廬江郡に居住したことになっています。東越列伝にもどると、元鼎六年(紀元前111年)には漢の横海将軍韓説が派遣されて閩越国後継の東越国が滅んでおり、東越の民も江淮の間に徙されています。ここは人口史とも関わってるので、テーマ的にも痛い誤認ですよね。

同ページ「雲南省貴州省などでも、もとからその地に住んでいた民族の人口を、王朝が把握することはなかった」
 『史記西南夷列伝によると、元封二年(紀元前109年)に武帝巴蜀の兵を動員して労濅と靡莫を撃滅し、滇国を降し、益州郡を置いているので、それはどうかなと思います。『漢書』地理志上によると、益州郡の戸口は81946戸、580463口となっております。というか、p.50に挙げられてる「西暦2年の戸口統計」表でも雲南省貴州省の数字出てますよね。

 いちいちこの調子では疲れるので、いったん締めます。個人的には魏晋南北朝あたりの信用できない人口統計の数々が語られることを期待していたので、そのへんが軽く流されたあたりで読むモチベーションは下がっており、最後まで読まないかもしれません。

河陰の変の犠牲者たち

 河陰の変は北魏の末期に晋陽を拠点としていた軍閥の爾朱栄が発動した政変で、武泰元年(西暦528年)四月十三日に発生しました。北魏の霊太后や幼主が黄河に沈められたのを皮切りに公卿以下2000人あまりが殺害されたとされています。以下はその犠牲者のリストのごく一部にすぎませんが、狂気の一端を感じていただければと思います。なお引用史料中に武泰元号と建義元号が混在しておりますが、四月中に改元がおこなわれたための混同によるもので、厳密には「武泰元年」が正当のはずです。では、

太后 - 皇太后 - 『魏書』巻10「乃害靈太后及幼主」『魏書』巻13「太后及幼主並沉於河」
元釗 - (前)皇帝 - 『魏書』巻10「乃害靈太后及幼主」『魏書』巻13「太后及幼主並沉於河」
元劭 - 御史中尉、無上王 - 『魏書』巻10「次害無上王劭」『魏書』巻21下「尋遇害河陰」
元子正 - 尚書令、始平王 - 『魏書』巻10「始平王子正」『魏書』巻21下「與兄劭俱遇害」元子正墓誌「春秋廿有一,以建義元年歳在戊申四月戊子朔十三日庚子薨於河陰」
元雍 - 丞相、高陽王 - 『魏書』巻10「又害丞相高陽王雍」『魏書』巻21上「於河陰遇害」
元欽 - 司空公、鉅平県公 - 『魏書』巻10「司空公元欽」『魏書』巻19上「於河陰遇害」元欽墓誌「春秋五十九,以建義元年四月十三日遇害於北邙之陰」
元恒 - 侍中、儀同三司 - 『魏書』巻10「儀同三司元恒芝」『魏書』巻19上「後於河陰遇害」
元略 - 驃騎大将軍、尚書令、東平王 - 『魏書』巻10「儀同三司東平王略」『魏書』巻19下「榮入洛也,見害於河陰」元略墓誌「春秋卌有三,以大魏建義元年歳次戊申四月丙辰朔十三日戊辰薨於洛陽之北邙」※元略墓誌の干支には誤りがある。
元悌 - 広平王 - 『魏書』巻10「廣平王悌」元悌墓誌「春秋廿有三,以武泰元年四月十三日薨於河梁之西」
元邵 - 常山王 - 『魏書』巻10「常山王邵」元邵墓誌「武泰元年太歳戊申四月戊子朔十三日庚子暴薨于河陰之野,時年二十有三」
元超 - 光禄大夫、領将作大匠、北平王 - 『魏書』巻10「北平王超」『魏書』巻19下「尒朱榮之入洛,超避難洛南,遇寇見害」※元超の死については孝荘紀と景穆十二王列伝の記述のあいだに矛盾がある。
元彝 - 任城王 - 『魏書』巻10「任城王彝」『魏書』巻19中「莊帝初,河陰遇害」元彝墓誌「以武泰元年四月十三日奉迎鑾蹕於河渚,忽逢亂兵暴起,玉石同焚,年廿三薨逝」
元毓 - 趙郡王 - 『魏書』巻10「趙郡王毓」『魏書』巻21上「莊帝初,河陰遇害」元毓墓誌「春秋廿,建義元年四月十三日薨於雒陽」
元叔仁 - 征虜将軍、通直散騎常侍 - 『魏書』巻10「中山王叔仁」『魏書』巻19下「孝莊初,遇害於河陰」
元温 - 斉郡王 - 『魏書』巻10「齊郡王溫」
元法寿 - 平東将軍、光禄大夫 - 『魏書』巻16「建義初,於河陰遇害」
元謙 - 前軍将軍、征蠻都督 - 『魏書』巻16「莊帝初,於河陰遇害」
元馗 - 安西将軍、東秦州刺史 - 元馗墓誌「春秋卌七,薨於河陰鑾駕之右」
元汎 - 光禄大夫、宗正卿、東燕県男 - 『魏書』巻19上「於河陰遇害」
元順 - 征南将軍、右光禄大夫、兼尚書左僕射 - 『魏書』巻19中「聞害衣冠,遂便出走,為陵戶鮮于康奴所害」元順墓誌「遂以刃害公,春秋卌有二」
元義興 - 輔国将軍、通直散騎常侍 - 『魏書』巻19下「孝莊初,於河陰遇害」
元湛 - 廷尉少卿 - 『魏書』巻19下「莊帝初,遇害河陰」元湛墓誌「春秋卅八,建義元年歳次實沈月在仲呂戊子朔十三日庚子薨」
元讞 - 左将軍、太中大夫、平鄉県開国男 - 『魏書』巻21上「莊帝初, 河陰遇害」
元均之 - 行趙郡太守 - 元均之墓誌「春秋三十有八,武泰元年四月戊子朔十三日薨于洛陽」
元瞻 - 金紫光禄大夫、散騎常侍 - 元瞻墓誌「春秋五十一,以建義元年四月戊子朔十三日薨於位」
元譚 - 秦州刺史 - 元譚墓誌「春秋卌有一,建義元年歳次戊申四月十三日龍飛之會」
元悛 - 国子学生 - 元悛墓誌「以建義元年四月十三日卒於河梁之南」
元愔 - 員外郎 - 元愔墓誌「以建義元年四月十三日卒於河梁之南」
元端 - 安徳郡開国公 - 元端墓誌「春秋三十六,大魏武泰元年四月戊子朔十三日庚子卒於邙山」
元宥 - 贈征北将軍、相州刺史 - 元宥墓誌「春秋五十四,以武泰元年夏四月既旬越三日薨於廬」
元廞 - 員外散騎常侍 - 元廞墓誌「春秋卌有三,以建義元年四月十三日薨於位」
元昉 - 給事中 - 元昉墓誌「春秋十有九,建義元年四月十三日薨於洛陽」
元礼之 - 軍主 - 元礼之墓誌「以建義元年四月十三日遘疾薨於京師,時年廿三」
元永 - 員外散騎常侍 - 元永墓誌「武泰元年太歳戊申四月十三日薨於京師,春秋廿五」
元維 - 大宗正丞 - 元維墓誌「春秋廿六,以建義元年四月十三日河梁之下,非命卒世」
封回 - 右光禄大夫 - 『魏書』巻32「莊帝初,遇害於河陰,時年七十七」
王遵業 - 在父喪中 - 『魏書』巻38「俱見害河陰」
李瑾 - 通直散騎侍郎 - 『魏書』巻39「莊帝初,於河陰遇害,年四十九」『北史』巻100「莊帝初,於河陰遇害,年三十九」
李曖 - 尚書左外兵郎 - 『魏書』巻39「孝莊初,於河陰遇害,年四十」
李㬇 - 尚書左外兵郎 - 『北史』巻100「莊帝初,於河陰遇害,年四十」
李仁曜 - 員外散騎侍郎、太尉錄事參事 - 『北史』巻100「與兄㬇同於河陰遇害,年三十八」
李皓 - 散騎侍郎 - 『北史』巻100「亦遇害河陰」
李義慎(義順) - 司空屬 - 『魏書』巻39「莊帝初,並於河陰遇害」
李義遠 - 国子博士 - 『魏書』巻39「莊帝初,並於河陰遇害」
李遐 - 河内太守 - 『魏書』巻39「及河陰,為亂兵所害,時年四十二」『北史』巻100「從孝莊南度河,於河陰遇亂兵所害」
陸士宗 - 尚書左外兵郎中 - 『魏書』巻40「建義初,並於河陰遇害」
陸士述 - 符璽郎中 - 『魏書』巻40「建義初,並於河陰遇害」
陸希悦 - 平南将軍、光禄大夫 - 『魏書』巻40「遇害於河陰」
陸紹 - 司空城局参軍 - 陸紹墓誌「春秋五十有一,武泰元年四月十三日卒於京厘」
源纂 - 太府少卿 - 『魏書』巻41「建義初,遇害河陰,年三十七」
宇文慶安 - 武衛将軍 - 『魏書』巻44「河陰遇害」
裴詢 - 関右大使 - 『魏書』巻45「會尒朱榮入洛,於河陰遇害,年五十一」
李翼 - 尚書郎 - 『魏書』巻49「建義初,遇害河陰」
崔忻 - 兼尚書左丞 - 『魏書』巻49「莊帝初,遇害於河陰,年四十二」
李瑒 - 免官 - 『魏書』巻53「建義初,於河陰遇害,時年四十五」『北史』巻33「建義初,河陰遇害」
鄭季明 - - 『魏書』巻56「建義初,仲明弟季明遇害河陰」
楊暐 - 散騎常侍、安南将軍 - 『魏書』巻58「莊帝初,遇害於河陰」楊暐墓誌「建義元年四月十三日薨於河陰,嗚乎哀哉」
王誦 - 給事黄門侍郎 - 『魏書』巻63「孝莊初,於河陰遇害,年三十七」王誦墓誌「春秋卌有七,以魏建義元年歳在戊申四月十三日薨于洛陽」
李神軌 - 大都督 - 『魏書』巻66「尋與百官候駕於河陰,仍遇害焉」
崔士泰 - 龍驤将軍、征蛮別将 - 『魏書』巻66「建義初,遇害於河陰」
崔勵 - 斉州大中正 - 『魏書』巻67「建義初,遇害河陰,時年四十八」
高雲 - 輔国将軍、中散大夫 - 『魏書』巻68「建義初,於河陰遇害」『北史』巻40「河陰遇害」
裴延儁 - 兼侍中、吏部尚書 - 『魏書』巻69「莊帝初,於河陰遇害」『北史』巻38「莊帝初,於河陰遇害」
袁翻 - 撫軍将軍 - 『魏書』巻69「建義初,遇害於河陰 ,年五十三」
袁昇 - 通直散騎常侍 - 『魏書』巻69「亦於河陰見害」『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」
裴諧 - 著作佐郎 - 『魏書』巻71「建義初,於河陰遇害,時年二十六」
范紹 - 太府卿 - 『魏書』巻79「莊帝初,遇害河陰」
李延孝 - 尚書屯田郎中 - 『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」『北史』巻100「於河陰遇害」
李奐 - 外兵郎 - 『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」
王延業 - 中書郎 - 『魏書』巻81「而昇等四人,皆於河陰遇害,果如其言」『北史』巻35「河陰之役,遂亡骸骨」
馮穆 - 金紫光禄大夫 - 『魏書』巻83上「遇害河陰」
崔暹 - 都督 - 『魏書』巻89「建義初,遇害於河陰」
王忻 - 太尉記室参軍 - 『魏書』巻93「建義初,河陰遇害」
王誕 - 龍驤将軍、正平太守 - 『魏書』巻93「亦於河陰遇害」
蕭彦 - 金紫光禄大夫 - 『魏書』巻94「彥於河陰遇害」
王溫 - 武陽県開国侯 - 『魏書』巻94「建義初,於河陰遇害,年六十六」
盧仲宣 - 太尉属 - 『北史』巻30「魏孝莊帝初,遇害河陰」
周安 - 通直散騎常侍、䮾驤将軍、俊儀県開国男 - 周安墓誌「建義元年,主上聖德應符,中興啓運,奉迎河陰,遇此亂兵,枉離禍酷」
唐耀 - 游撃将軍、散品雛県男 - 唐耀墓誌「春卌有七,魏建義元年歳次戊申四月戊子朔十三日庚子薨於洛陽」

以上。

 この陰惨な事件が発生した原因としては、霊太后が孝明帝を毒殺し、孝明帝と潘充華のあいだに生まれた皇女を男子と偽って皇帝に擁立し、このことが発覚するやわずか1日で退位させて、幼主元釗を擁立したことにあるとされています。爾朱栄はこれに激怒して軍を南進させ、長楽王元子攸(孝荘帝)を擁立し、洛陽を目指します。爾朱栄の軍が黄河を渡ると、霊太后は敗北を悟って落髪し、爾朱栄の派遣した騎兵に護送されて河陰に入ります。北魏の百官たちも孝荘帝を奉迎する名目でついていくわけですが、爾朱栄が霊太后の罪を糾弾する演説をおこなうや、爾朱栄の兵たちは暴発し、虐殺事件にいたるわけです。なお孝荘帝の即位は四月十一日戊戌のことで、河陰の変が起こったのは四月十三日庚子のことですが、この時間順を逆に書いているWikipedia「霊太后」記事などは信用してはいけません。「莊帝初」と書いている史料が正当なのです。

 上の犠牲者リストには、孝荘帝に従って渡河した側にいたにも関わらず巻き添えを食った河内太守李遐のような例や、現場から逃亡した先で殺されてしまった元超や元順のような例も含めています。

 つぶさにこのリストをみるに、やはり元氏(拓跋氏)の受けた被害は甚大だったと言わざるをえません。この事件のあとも傍系の元氏の皇族の氏名はぞろぞろと史料に登場し、皇帝も乱立するため、元氏はそれほど減ってないんじゃないかという錯覚もおぼえます。しかし宰相級を担える人材がほぼ払底し、北魏やその後継の東魏西魏を元氏がコントロールすることはできなくなったのです。北魏の滅亡を決定づけたとまではいかないものの、北朝軍閥分立時代の鶏鳴暁を告げた事件とくらいはいえそうです。

清華簡「楚居」をテキトーに訳してみた

 季連が初めて隈山(騩山)に降り 、𥤧竆(穴窮)にいたった。前に喬山(驕山)に出て、爰波(爰陂)を宅処とした。汌水をさかのぼり、方山を居処とする盤庚の子と会見した。その娘は妣隹といい、人心を掌握しており、四方に名声が轟いていた。季連は彼女と結婚できると聞いて、随従して盤(泮)に赴いた。ここに𦀚白(𦀚伯)と遠中(遠仲)が生まれた。順調に成長して、先に京宗に居住した。穴酓(穴熊)は遅くして京宗に徙り、ここに妣列を得た。哉水(載水)をさかのぼり、聶耳を屈服させると、妣列を妻に迎え、侸叔と麗季を生んだ。麗季は尋常な出産でなく、帝王切開で生まれ、妣列はこのとき死去したことから、巫咸はその出産を楚とし、今にいたるまで楚人といわれる。酓𢚇(熊狂)にいたってまた京宗に居住した。酓繹(熊繹)と屈𥾡(屈紃)にいたって、鄀嗌を夷屯に徙させた。楩室を作って完成させると、中に入れさせず、鄀人の牛を盗んで祭祀をおこなった。 その主を懼れて、屍を夜間に搬入したため、今にいたるまで尸祭は必ず夜におこなわれるようになった。酓只(熊只)・酓𦨪(熊䵣)・酓樊 (熊樊)および酓錫(熊錫)・酓渠(熊渠)にいたるまで、ことごとく夷屯に居住した。酓渠(熊渠)が発漸に徙居した。酓艾(熊艾)と酓摯(熊摯)にいたるまで発漸に居住した。酓摯(熊摯)は旁屽に徙居した。酓延(熊延)にいたって旁屽から喬多に徙居した。酓甬(熊勇)および酓厳(熊厳)・酓相(熊霜)および酓雪(熊雪)および酓訓(熊徇)・酓咢(熊咢)および若囂(若敖)酓義(熊儀)にいたるまで、みな喬多に居住した。若囂(若敖)酓義(熊儀) が箬に徙居した。焚冒(蚡冒)酓帥(熊帥)にいたって箬から焚に徙居した。宵囂(宵敖)酓鹿(熊鹿)にいたって焚から宵に徙居した。武王酓徹(熊徹)にいたって宵から免に徙居し、このため始めて□□□□□福。人々を免に収容できなかったため、疆郢の陂を埋め立てて人を収容した。このため今にいたるまで郢という。文王にいたって疆郢から淋郢に徙居し、淋郢から為郢に徙居した。再び免郢に徙居し、これを改名して福丘といった。荘囂(荘敖)にいたって福丘から箬郢に徙襲した。成王にいたって箬郢から淋郢に徙襲し、徙□□□□睽郢に居した。穆王にいたって睽郢から為郢に徙襲した。荘王にいたって樊郢に徙襲し、同宮の北に徙居した。若囂(若敖)の禍が起こり、このため承の埜(蒸の野)に徙居し、□□□為郢に徙襲した。龏王(共王)・康王・ 嗣子王(郟敖)にいたるまでみな為郢に居住した。霝王(霊王)にいたって為郢より秦渓(乾渓)の上に徙居し、章華の台を為処とした。競坪王(景平王)が即位すると、なおも秦渓(乾渓)の上に居住していた。卲王(昭王)にいたって秦渓(乾渓)の上から媺郢に徙居し、鶚郢に徙居し、為郢に徙襲した。盍虜(闔閭)が郢に侵入すると、 このため再び秦渓(乾渓)の上に徙居し、再び媺郢に徙襲した。献恵王にいたって媺郢から為郢に徙襲した。白公の禍が起こると、このため淋郢に徙襲し、これを改めて、肥遺といい、梄澫を為処とした。鄢郢に徙居し、吁に徙居した。王太子は邦を再び淋郢とし、王は吁から蔡に徙った。王太子は淋郢から疆郢に徙居した。王は蔡からここにもどった。柬大王は疆郢より藍郢に徙居し、䣙郢に徙居し、𨜻に復帰した。王太子は䣙郢を邦居とし、𨛚郢を為処とした。悼折王(悼哲王)にいたってなお䣙郢に居住していた。中謝の禍が起こると、このため肥遺に徙襲した。邦は大いに衰え、このため鄩郢に徙居した。

 

 「楚居」は清華大学蔵戦国竹簡の一篇で、楚王代々の居処の記録である。
 拙訳にあたっては、
http://www.gwz.fudan.edu.cn/Web/Show/1663
http://chu.yangtzeu.edu.cn/info/1006/1428.htm
あたりを超テキトーに参考にし、面倒くさいところは現代日本語に砕く努力を省いた。
 「~郢」と呼ばれる楚の都が何カ所もあったり、楚王の系譜が『史記』楚世家と異なる箇所があったりするのが、この史料の注目点といえるだろう。

歴史の有用性とは

 歴史語りとは、もちろんそれは話題とする歴史を探求する営為にほかならないのだが、同時に話者の文化と言語の可能性を拡張する営為でもありうる。

……とか格好よくいうと、すでに過去の先賢のアフォリズムの中にありそうな気もする。過去の言語を、ミームを、社会を掘り出すことで、われらが現代の母なる文化と言語を拡充し、より豊穣なものにしているのだよ。歴史が役に立つとか、役に立たないとかつまらない議論はやめたまえ。

最近の漢籍電子テキスト事情2020年版

 以前にも同様のテーマで書いたことはあるのだが、内容がだいぶ古びてしまったので、稿を新たに書こうと思う。なお使用料が必要とか授権使用とか面倒くさいあたりのところは当方は関知しないのであしからず。

台湾中央研究院漢籍電子文献資料庫
http://hanji.sinica.edu.tw/
 テキストの信頼性の高さと取り回しの良さで、いまだにここがスタンダードと言える。二十五史や十三経といった基本的な文献を検索するときにはまずここである。なお授権使用だと使用できるテキストが激増するらしいが、免費使用オンリーの亭主の知ったことではない。戦国策や通典を検索できた「人文資料庫師生版1.1」が消えてしまったのが惜しまれてならない。

台湾師大図書館【寒泉】古典文献全文検索資料庫
http://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/
 ここも老舗であるが、優先度は下がってしまったかもしれない。先秦諸子や資治通鑑や太平広記や全唐詩などをピンポイントで検索するときにはここを使う。

漢籍リポジトリ
http://www.kanripo.org/
 テキストの信頼性が低いのが難点だが、怒涛のごときテキストの量は質を凌駕する。検索も使える。

中華経典古籍庫
http://publish.ancientbooks.cn/docShuju/platformSublibIndex.jspx?libId=5
 無料使用だと検索だけで、コピーアンドペーストさえできないが、これまたテキストの量が膨大で驚く。テキストの質もよさそうである。

Wikisource
https://zh.wikisource.org/wiki/Portal:%E5%8F%B2%E6%9B%B8
 テキストの質が低く、検索も使いものにならないという踏んだり蹴ったりだが、今後に期待したい。

『山月記』の袁傪が将軍だった件

 中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとなった実在の袁傪について述べており、『山月記』の袁傪の人格や毀誉褒貶に一切関わりがないことを特に申し添えておきます。

 さてはじめに袁傪の出自や前半生を語りたいところですが、ほとんど何も分かりません。正史に袁傪の列伝がないので、まとまった伝記というものがないのです。まずは袁傪の出身地が不明です。『全唐文』巻396に見える「姚令公元崇書曹州布衣袁參頓首」の「袁參」が袁傪という説もありまして、これを採るなら曹州(済陰郡)の人になります。ちなみに袁傪の本貫を陳郡(陳州)とするのは、李徴とからむ『宣室志』人虎伝系の説話が生まれて以降の設定のようで、まともな史書には見えません。陳郡袁氏は名族ですので、そういう設定が後付けで作られたのでしょう。

 大唐故東平郡鉅野県令頓丘李府君墓誌銘(李璀墓誌)によると、袁傪は鉅野県令をつとめた李璀の次女を妻に迎えました。ちなみに李璀は748年(天宝7載)に72歳で死去しており、その夫人の博陵崔氏はその翌年に56歳で亡くなっています。

 袁傪が756年(天宝15載)に進士に及第したという説がありますが、これも人虎伝系説話が李徴を天宝15載の進士としており、袁傪が同期とされることからの附会でしょう。袁傪が史書の片隅に名を残したのは、李光弼の部下として袁晁・陳荘・方清の3つの反乱を鎮圧し、軍事的功績を挙げたからです。『新唐書』劉晏伝に「上元、寶應間,如袁晁、陳莊、方清、許欽等亂江淮,十餘年乃定」と粛宗・代宗期の江淮における4つの反乱が挙げられていますが、袁傪はそのうち3つを平定していることになります。まずは台州の袁晁の乱から見ていきましょう。

 『旧唐書』代宗紀宝応元年八月庚午の条に「台州賊袁晁陷台州,連陷浙東州縣」とあるのが、袁晁の乱のはじまりです。代宗紀での袁傪の記述は宝応二年三月丁未の条に「丁未,袁傪破袁晁之眾於浙東」とあり、763年に袁晁の反乱軍を浙東で撃破したという簡潔な記述にとどまっています。

 『旧唐書』王栖曜伝では宝応の次の広徳年間のこととされていますが、「廣德中,草賊袁晁起亂台州,連結郡縣,積眾二十萬,盡有浙江之地。御史中丞袁傪東討,奏栖曜與李長榮為偏將,聯日十餘戰,生擒袁晁」とあります。袁晁が台州で反乱を起こし、20万の人々を集め、浙江全域を領有した。御史中丞の袁傪が東征し、王栖曜と李長栄が偏将となり、連日十数戦して、袁晁を生け捕りにしたというのです。

 李肇『唐国史補』巻上によると、「袁傪之破袁晁擒其偽公卿數十人州縣大具桎梏謂必生致闕下傪曰此惡百姓何足煩人乃各遣笞臀而釋之」といい、袁傪は公卿を称していた袁晁軍の幹部数十人を捕らえると、かれらに桎梏を嵌めて「百姓が人を煩わせおって」といい、その臀部を笞打って釈放させたといいます。心底からの民衆蔑視なのか、それを装った温情なのか、解釈は分かれるかもしれません。

 『全唐詩』巻148にみえる劉長卿の「和袁郎中破賊後軍行過剡中山水謹上太尉」や同巻207にみえる李嘉祐「和袁郎中破賊後經剡縣山水上太尉」や同巻250にみえる皇甫冉「和袁郎中破賊後經剡中山水」といった詩題があります。袁郎中は袁傪を指し、太尉は李光弼を指しています。これらの詩は袁傪が李光弼の部下として袁晁の乱を鎮圧した後、越州剡県の名勝地を李光弼に見せて回ったときのことを詠んだものです。

 さて、烏石山の陳荘の乱・石埭城の方清の乱に進みましょう。

 『文苑英華』巻566の「賀袁傪破賊表」によると、「臣某等言臣等伏見河南副元帥行軍司馬太子右庶子兼御史中丞袁傪露布奏今年五月十七日破石埭城賊方清并降烏石山賊陳莊等徒黨二萬五千五百人者」といい、河南副元帥行軍司馬・太子右庶子・兼御史中丞の官にあった袁傪が石埭城の反乱軍の方清を破り、烏石山の反乱軍の陳荘を降伏させたようです。ちなみに河南副元帥は李光弼の官であり、行軍司馬はその軍事面の副官にあたります。

 『新唐書』地理志五によると、池州秋浦県に烏石山があり、広徳初年に陳荘・方清の反乱軍が拠ったとされています。また同志には、765年(永泰元年)に方清の反乱軍が歙州を陥落させ、766年(永泰2年)に方清の乱が鎮圧されたことがみえます。「賀袁傪破賊表」の「今年」は、766年のこととみるべきでしょう。

 『全唐詩』巻252に袁傪の現存唯一の詩が収録されています。

喜陸侍御破石埭草寇東峰亭賦詩 袁傪
古寺東峰
登臨興有餘
同觀白簡使
新報赤囊書
幾處閒烽堠
千方慶里閭
欣欣夏木長
寂寂晚煙徐
戰罷言歸馬
還師賦出車
因知越范蠡
湖海意何如

 題は「陸侍御が石埭の草寇を破ったのを喜び、東峰亭に詩を賦す」といったところです。陸侍御とは陸渭のことであり、『新唐書』蕭穎士伝に「如李陽、李幼卿、皇甫冉、陸渭等數十人,由奬目,皆為名士」と列せられた名士です。石埭の草寇とは方清率いる石埭城の反乱軍のことです。趙紹祖『涇川金石記』に旧志を引いて「唐御史中丞袁傪命判官殿中侍御史陸渭以石埭寇方清已,以後軍次涇上」というように、陸渭はどうやら袁傪の部下として方清の乱の鎮圧に従事したらしいのです。同じ主題の詩は崔何・王緯・郭澹らにも詠まれており、袁傪をめぐる人間関係がうっすら見えてくるようでもあります。

 ここで袁傪の部下についても簡単に紹介しておきましょう。王栖曜・李長栄・陸渭らについては上述したので繰り返しません。『旧唐書』李自良伝に立伝されている李自良は「後從袁傪討袁晁陳莊賊」といい、袁傪に従って袁晁・陳荘の乱を討ったことが明記されています。『韓愈文集』所収の「崔評事墓銘」には、広徳年間に袁傪が袁晁を討ったとき、崔翰が偏将をつとめたことが見えます。

 さて、『唐僕尚丞郎表』巻18によると、袁傪は777年(大暦12年)から尚書兵部侍郎をつとめていたようです。長安の中央官界に入っても軍務畑からは離れられなかったようです。この年の元載の弾劾取り調べに袁傪ら6人が関わっていたことが、両唐書の元載伝や劉晏伝に見えます。

 最後に袁傪が顔真卿に喧嘩を売った話をしなくてはなりますまい。ことは779年(大暦14年)の話です。『旧唐書』徳宗紀大暦十四年秋七月戊辰朔の条に「秋七月戊辰朔,日有蝕之。禮儀使、吏部尚書顏真卿奏:「列聖諡號,文字繁多,請以初諡為定。」兵部侍郎袁傪議云:「陵廟玉冊已刻,不可輕改。」罷。傪妄奏,不知玉冊皆刻初諡而已」(秋7月1日に日食があった。礼儀使・吏部尚書顔真卿が「列聖の諡号は文字がやたら多いので、初諡によって定めるようお願いします」と上奏した。兵部侍郎の袁傪が「陵廟の玉冊はすでに刻まれているので、軽々しく改めるべきではない」と反論したので、取りやめられた。袁傪の反論は間違いで、玉冊にはみな初諡が刻まれているのを知らなかったのだ)とあります。

 この話は顔真卿伝にもあって、列聖の諡号とは高祖(李淵)以下の七聖の諡号であると分かります。高祖李淵の例でいうなら「神堯大聖大光孝皇帝」とか長いやつですね。顔真卿はこれを初諡の「大武皇帝」に戻そうと提案したのです。袁傪は皇帝陵墓と宗廟の玉冊にはすでに長い当時最新の諡号が刻まれていると勘違いして、ピント外れな反論をおこなったのですが、その反論が通って顔真卿の提案は退けられてしまったのですね。

 顔真卿は書家として有名な人ですが、安史の乱に対する義兵を起こして抵抗した軍事指導者でもありまして、袁傪の旧主である李光弼のライバルでもありました。李光弼は大暦年間にはとっくに亡くなっていましたが、もしかしたら古い確執が尾を引いてこの奇妙で短い論争へと導いたのかもしれません。

 袁傪の晩年と最期については、その前半生と同様に不明です。もし今後に何か新たなことが分かるとするなら、それは袁傪の墓誌が出土したときかもしれません。