『史記』項羽本紀に「故楚南公曰,楚雖三戶,亡秦必楚」(故楚南公曰く、楚は三戸といえども、秦を亡ぼすのは必ず楚なり)という有名なフレーズがある。
通説的な解釈は『史記集解』所引臣瓚のいう「楚人は秦を怨んでいるので、わずか三戸でも秦を亡ぼすに足りる」というもので、とても自然な解釈なのだが、ほかにいくつかの異説がある。『史記索隠』所引韋昭は「三戸」を楚の三大姓である昭・屈・景のこととしている。また同じく『索隠』は『春秋左氏伝』杜預注を引いて、「今丹水縣北三戶亭」といい、「三戸」を河南省淅川県あたりの地名とみなしている。地名説はほかにもあり、『史記正義』所引服虔が「三戶,漳水津也」といい、孟康が「津峽名也,在鄴西三十里」という。『括地志』は「濁漳水又東經葛公亭北,經三戶峽,為三戶津,在相州滏陽縣界」という。これらは河北省磁県あたりの地名を示しており、のちに項羽が三戸津を渡って秦の章邯の軍を破ったことを予見していたのだという。
今回の元ネタは趙翼『陔余叢考』巻五「三戶」であるが、『史記』三家注をベースにいろいろ組み替えてある。
弭兵
『春秋左氏伝』襄公二十七年に「弭兵」(びへい)の記録がある。中国の春秋時代から戦国時代初期にかけて、晋楚二大国の基軸対立があった。紀元前546年に晋の趙武・楚の屈建・魯の叔孫豹・蔡の公孫帰生・衛の石悪・陳の孔奐・鄭の良霄らの大夫が宋で会合し、休戦を約束したのである。これを「弭兵」という。実質的に晋楚二大国の休戦を約束したものであり、この休戦の盟約は約40年維持された。
中国史上で再び「弭兵」が現実的な課題として語られるようになるのは、時代下って宋金戦争のころだが、このころには「和議」と呼ばれることのほうが多かったようである。
遡って南北朝時代にも、南北朝間の休戦の記録はあるが、「弭兵」とは呼ばれていない。「連和」と呼んでいることが多いが、「連和」には休戦よりも同盟関係のニュアンスが強いように思われる。
永遠ならざるテキストのために
前世紀末から今世紀初頭にかけて隆盛した個人Webページのテキストも、四半世紀が経ってその多くが失われてしまった。企業のWebサービスに依存していたため、そのサービス終了とともに失われてしまったのである。アカデミアのWebテキストすら、属人的理由で消え去ったものが実は多い。
などで発掘できるものもあるが、永遠に失われたものも少なくない。もともと玉石混交であったとしても、惜しまれるものもある。いまあるブログ記事やSNSのテキストなども、四半世紀後にどれだけ残っているかはおぼつかない。営利企業に依存していないWikipediaや青空文庫などは四半世紀後にも残っている可能性が高いかなと、いずれ永遠に残るものではないにしても、愚考する次第である。亭主がWikipediaマイナー記事を執筆する動機には、そういう屁理屈もないではない。
魯厳公
魯の厳公という魯の歴代には存在しないはずの諡号を伝えているテキストがいくつかある。たとえば『漢書』古今人表が「魯嚴公同桓公子」といっていたり、『漢書』外戚伝下が「魯嚴公夫人殺世子,齊桓召而誅焉」といっていたりする。
『漢書』劉向伝の顔師古注は「魯嚴公」について「即莊公也」といっている。魯の厳公とは魯の荘公(在位前693年 - 前662年)のことだったんだよ。問題はあっさり解決した。
ところで最近春秋戦国時代の出土文献から伝世文献にみられない諡号が出てきている。晋の平公が荘平公とされていたり、楚の声王が声桓王とされていたり、楚の悼王が悼哲王とされていたりしているのだ。また以前から秦の昭王が実は昭襄王だったり、魏の恵王が恵成王だったりすることは知られている。根拠薄弱ながら、魯の荘公(厳公)も実は荘厳公だったのではないかという仮説を考えた……。
だが宋の黄震『黄氏日抄』巻52に「邱明今國語避漢諱謂魯莊嚴公又果左邱明之作否耶」(左丘明の現行『国語』が後漢の明帝劉荘の諱を避けて魯の荘公を厳公といっているのは、またはたして左丘明の作ったものなのだろうか)とあった。厳公の用例が『漢書』に多いことからみても、後漢の避諱と説明するほうがオッカムの剃刀ですっきりする。思いつきで考えた自説はまたあっさり爆沈したようだ。珍しくオチがついて良かった(泣)。
「鴻臚井碑」について
国宝級・唐の石碑「鴻臚井碑」はなぜ皇居に眠っているのか…中国の市民団体が訴える「返還」を考える:東京新聞デジタル
日露戦争時の略奪文物である「鴻臚井碑」に中国から返還要求が出ているという話である。
現行のWikipedia「鴻臚井」記事では、「渤海郡王に冊封した事実を記録している」といっているが、
「鴻臚井碑」の「勑持節宣勞靺羯使鴻臚卿崔忻井兩口永為記驗開元二年五月十八日」という短い碑文本文からは直接に大祚栄を「冊封した事実」は読み取れない。ただ『旧唐書』北狄伝の「睿宗先天二年,遣郎將崔訢往冊拜祚榮為左驍衞員外大將軍、渤海郡王」や『新唐書』北狄伝の「睿宗先天中,遣使拜祚榮為左驍衞大將軍、渤海郡王」の記述が裏付けられる石刻資料なので、重要なのだ。
なおブコメでは高句麗・渤海の帰属をめぐる中韓朝の歴史認識問題を心配する向きがある。
だがこの件に関しては、唐の鴻臚卿崔忻が渤海国からの帰路に現在の大連市旅順口区で井戸を掘り、その記念に建てた石碑である。碑文本文に付記された題記も、明の查応兆や清の額洛図・耆英・劉含芳らのもので、朝鮮・韓国の人はいない。朝鮮・韓国に返還する筋はありえないだろう。「中国に返還」するのが問題だと考えるなら、大連市なり遼寧省なりに返還すべきだろう。

