睡虎地秦墓竹簡「編年記」と『史記』秦本紀

睡虎地秦墓竹簡「編年記」については、以前メモっておいたことがあるわけですが、
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20111212/p1
史記』秦本紀と合わせ読んでみようというだけの企画です。
1年ごとに西暦、秦簡「編年記」記事、『史記』秦本紀記事の順序で淡々と並べているだけなので、何が面白いの?とかは聞かないでください。

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ブックマークカウンターをつけてみた。

 全くもって今さらなんですが、
 はてなダイアリーからはてなブログに移行するときに
「記事についたコメントや、はてなスターはてなブックマークを、すべてはてなブログに移行できます」
https://help.hatenablog.com/entry/import

みたいな説明がされていました。
 少なくともブックマークの移行についてはうまく行ってないよということを示すために、ブックマークカウンターを二つつけてみました。

『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。
▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。
▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほうを。面白そうな魏紀の部分だけを今回は紹介します。夏紀・殷紀・周紀・晋紀については、またの機会があればやりましょう。面倒くさいので注釈とかは省きます。どこの文献から引用されたかは、いちおうつけました。
▽「三晋」は趙・魏・韓の三国。「梁」は魏のこと。「邯鄲」は趙のこと。「鄭」はほぼ韓のことですが、一部に春秋の鄭や地名としての新鄭を指しているところがあります。
▽襄王十二年の「疾西風」の解釈は諸説あるので、無理に訳さず、放置しました。「疾」は「樗里疾」のことという説もあります。
▽魏の歴史書なので、魏からみた視点で書かれているのは言うまでもなく。
▽『史記』魏世家と読み合わせてみるのをオススメします。
▽『史記』の記述と異なる諸侯の号とか、六国年表と異なる紀年とかを楽しむのが乙です。では。

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男色の中国史その1

 お題のとおり。その1とつけたが、たぶん続きは書かない。

 弥子瑕という人物が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分けて一緒に食べたりしていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたとされて罰せられたという「余桃の罪」の故事が『韓非子』説難篇に見える。

 『史記』佞幸伝によると、「高祖至暴抗也,然籍孺以佞幸。孝惠時有閎孺。此兩人非有材能,徒以婉佞貴幸,與上臥起,公卿皆因關說」といい、漢の高祖劉邦は籍孺、恵帝は閎孺という少年を寵愛していた。また同伝によると、韓嫣や李延年が漢の武帝と寝所をともにしていたという。

 董賢は漢の哀帝の寵臣であり、「断袖」の故事で知られ、「常與上臥起。嘗晝寢,偏藉上褏,上欲起,賢未覺,不欲動賢,乃斷褏而起。其恩愛至此」(『漢書』佞幸伝)という寵愛ぶりで、大司馬にまで上ったが、哀帝が死去すると自殺に追いこまれた。

 北魏の汝南王元悦は丘念という人物を近づけており、「司州牧汝南王悅嬖近左右丘念,常與臥起」(『魏書』酈道元伝)といった。丘念は酈道元に獄中に叩きこまれるのだが、元悦が霊太后に訴えて救われることとなる。

 蕭韶は字を徳茂といい、蕭淵猷の子で、後に長沙王の封を嗣ぐ南朝梁の皇族であった。「韶昔為幼童,庾信愛之,有斷袖之歡,衣食所資,皆信所給」(『南史』梁宗室伝上)といい、かの文学者の庾信が蕭韶を稚児にしていたとされる。

「相邦」銘文をもつ文物

ざっとしたメモ書きなので、誤脱があればごめんなさい。戦国期の趙・中山・秦に相邦の官が存在したことが確実視される根拠はこのへんですね。
「十八年相邦平国君鈹」(邢台市家蔵)
「八年相邦建信君鈹」(北京故宮博物院蔵)
「十七年相邦春平侯鈹」(北京故宮博物院蔵)
中山王方壺銘文「隹十四年,中山王厝,命相邦賙,擇燕吉金,鑄為彝壺」(中山王墓出土)
「四年相邦樛斿戈」
「王四年相邦張義戈」(広州南越王墓博物館蔵)
「十二年相邦義双附耳蓋鼎」(朱昌言蔵)
「十三年相邦義戈」
「元年相邦疾戈」(蕭春源蔵)
「八年相邦薛君漆豆」(秦東陵一号墓出土)
「廿一年相邦冉戈」(中国国家博物館蔵)
「卅二年相邦冉戈」
「三年相邦呂不韋矛」(撫順市博物館蔵)
「三年相邦呂不韋戟」
「四年相邦呂不韋戈」(湖南省長沙市左家塘秦墓出土)
「四年相邦呂不韋戟」
「五年相邦呂不韋戈」(陳介祺旧蔵、中国国家博物館現蔵)
「五年相邦呂不韋戟」
「七年相邦呂不韋戈」
「八年相邦呂不韋戈」(宝鶏青銅器博物館蔵)
「九年相邦呂不韋戈」(四川省青川県白水出土)

韓王信は代王となったのか問題

 近刊の渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』(中公新書)p.23に「韓王信を代王として、国に封建する」と書かれています。古くは西嶋定生秦漢帝国』(講談社学術文庫)pp.187-188に「高祖の六年(前二〇一)、すなわち高祖が天下を統一した翌年のこと、韓王信は代王に封ぜられて晋陽(太原市)に移された。その年九月、匈奴はこの地に侵攻して、韓王信を馬邑(山西省朔県東北)に包囲し、韓王信は匈奴に降伏した」とも書かれています。
 韓王信が代王を称したのは、はたして自明なことなのでしょうか?

 『史記』高祖本紀の漢二年の条では、「更立韓太尉信為韓王」(さらに韓の太尉の信を立てて韓王とした)とあります。同高祖五年正月甲午の条では、「故韓王信為韓王,都陽翟」(もとの韓王の信が韓王となり、陽翟を都とした)とあります。同六年十二月の条には、「徙韓王信太原」(韓王信を太原に徙した)とあります。同七年の条には、「匈奴攻韓王信馬邑,信因與謀反太原」(匈奴が韓王信を馬邑に攻め、信はこのためにともに太原で反乱を図った)とあります。

 『史記』秦楚之際月表によると、漢二年十一月に「韓王信,始漢立之」(韓王信、始めて漢がこれを立てる)とあり、同月表の高祖五年正月に「韓王信徙王代,都馬邑」(韓王信が代に王として徙され、都を馬邑とした)とあります。「徙王代」の解釈もさることながら、韓王信の徙封時期を高祖五年正月とすることや、都を馬邑とすることなど問題があることがわかります。

 『史記』漢興以来諸侯王年表では、高祖二年の代の項に「十一月,初王韓信元年。都馬邑」(十一月、初めて韓信を王とし、元年とする。馬邑を都とした)とあります。ただやはりこの記述は信頼できないと見えて、この部分について『史記集解』は徐広を引いて「本紀と表は高祖が立って五年で始めて信を徙したとする」と注記しています。いや、この注の「五年」も問題はあるのですけれども。同年表の高祖五年の代の項に「四 降匈奴,國除為郡」(韓王信の四年、匈奴に降り、国は除かれて郡となった)とあります。やはりこの年代も他史料との矛盾が大きすぎ、信用すべきでないでしょう。

 『史記』韓王信伝では、「漢二年,韓信略定韓十餘城。漢王至河南,韓信急擊韓王昌陽城。昌降,漢王迺立韓信為韓王」(漢二年、韓信は韓の十数城をほぼ平定した。漢王が河南にやってくると、韓信は急いで項羽の任命した韓王の鄭昌を陽城に攻撃した。鄭昌が降伏すると、漢王はすなわち韓信を韓王として立てた)とあります。
三年に滎陽で楚に降ったり、また漢に逃げ戻ってきたりした後に、「五年春,遂與剖符為韓王,王潁川」(五年春、割符が与えられて韓王となり,潁川に王となった)といいます。潁川郡の郡治が陽翟県ですので、高祖本紀の記述とも整合します。翌年春には「迺詔徙韓王信王太原以北,備禦胡,都晉陽」(すなわち詔により韓王信を太原以北の王として徙し、胡に備えて防御させ、晋陽を都とした)。やはり都は晋陽です。同年の「秋,匈奴冒頓大圍信,信數使使胡求和解。漢發兵救之,疑信數閒使,有二心,使人責讓信。信恐誅,因與匈奴約共攻漢,反,以馬邑降胡,擊太原」(秋、匈奴冒頓単于が信を大包囲し、信はたびたび使者を胡に派遣して和解を求めさせた。漢は兵を発してこれを救おうとしたが、信がたびたび間使を送っているのを疑って、二心あるものと人を送って信を責めさせた。信は殺されるのを恐れて、匈奴とともに漢を攻める約束を交わし、そむいた。馬邑をもって胡に降り、太原を攻撃した)。

 『漢書』韓王信伝は『史記』韓王信伝とほぼ同じ内容なのですが、ひとつ無視できない記述があります。六年春のところに「乃更以太原郡為韓國,徙信以備胡,都晉陽。」(そこでさらに太原郡を韓国とし、信を徙して胡に備えさせ、晋陽を都とした)とあることです。韓王信の徙封先の太原郡を韓国としたということは、韓王信は代王と封号を改めていないことになるからです。『漢書』高帝紀の高帝六年正月壬子の条にも「以太原郡三十一縣為韓國,徙韓王信都晉陽」(太原郡三十一県を韓国とし、韓王信の都を晋陽に移した)とあります。『漢書』では一貫して韓王信は太原徙封後も韓王のままなのです。

 諸史料間に矛盾はありますが、明らかに信憑性の低い『史記』漢興以来諸侯王年表の記述を除けば、漢二年(紀元前205年)に韓太尉の韓信が韓王を称して漢王劉邦に追認され、高祖五年(紀元前202年)に皇帝となった劉邦により韓王に封建されて陽翟に都を置き、六年(紀元前201年)に韓王のまま太原郡に徙封され、同年のうちに匈奴に降ったというアウトラインが見えてくるのではないでしょうか。韓王信が代王を称した事実は全くなかったと思われます。徙封先の都も太原郡の晋陽であって、雁門郡の馬邑ではなかったとみるのが、蓋然性が高そうです。

 韓王信が代王に封ぜられたという見解は、信用すべきでない『史記』漢興以来諸侯王年表の記述を信用し、同書秦楚之際月表の「徙王代」を誤解釈したことから発生したものとみなすべきでしょう。

始皇帝に仕えたベトナム人

秦が六国を併呑し、秦王が皇帝と称した。ときに我が交趾郡慈廉県の人である李翁仲は、身長が二丈三尺あった。若いときに郷邑に赴いて力役を供したことがあったが、長官に笞打たれた。そのため秦に入国して仕え、司隷校尉にのぼった。始皇帝が天下を得ると、翁仲に命じて兵を率い臨洮を守らせた。翁仲の名声は匈奴にも鳴り響いたが、老いて郷里に帰り、亡くなった。始皇帝は翁仲を特別視して、銅を鋳造してその像を作らせ、咸陽の司馬門に置いた。その腹の中に数十人を収容して、像を揺り動かすと、匈奴は校尉が生きているものとみなして、あえて侵犯しなかった。

唐の趙昌が交州都護となると、夜ごとに翁仲と『春秋左氏伝』を講義する夢を見た。そのため趙昌は翁仲の旧宅を訪ねると、旧宅が現存していたので、祠を立てて祭をとりおこなった。高駢が南詔を破ったとき、翁仲の霊が現れてその征戦を助けた。高駢は翁仲の祠の建物を改修し、木の立像を彫って李校尉と呼んだ。その神祠は慈廉県の瑞香社にあった。

大越史記全書』外紀巻之一

 

 

全体として荒唐無稽なところが多く、あまり信用できないエピソードではある。細かいことをいえば、秦代に司隷校尉という官があったかどうかは疑問である。漢代の司隷は秦代には内史と呼ばれていた。

臨洮の地名や銅像を作ったくだりは始皇帝の十二金人を思い起こさせる。十二金人をめぐる異説のひとつと位置づけるべきかもしれない。