魯の厳公という魯の歴代には存在しないはずの諡号を伝えているテキストがいくつかある。たとえば『漢書』古今人表が「魯嚴公同桓公子」といっていたり、『漢書』外戚伝下が「魯嚴公夫人殺世子,齊桓召而誅焉」といっていたりする。
『漢書』劉向伝の顔師古注は「魯嚴公」について「即莊公也」といっている。魯の厳公とは魯の荘公(在位前693年 - 前662年)のことだったんだよ。問題はあっさり解決した。
ところで最近春秋戦国時代の出土文献から伝世文献にみられない諡号が出てきている。晋の平公が荘平公とされていたり、楚の声王が声桓王とされていたり、楚の悼王が悼哲王とされていたりしているのだ。また以前から秦の昭王が実は昭襄王だったり、魏の恵王が恵成王だったりすることは知られている。根拠薄弱ながら、魯の荘公(厳公)も実は荘厳公だったのではないかという仮説を考えた……。
だが宋の黄震『黄氏日抄』巻52に「邱明今國語避漢諱謂魯莊嚴公又果左邱明之作否耶」(左丘明の現行『国語』が後漢の明帝劉荘の諱を避けて魯の荘公を厳公といっているのは、またはたして左丘明の作ったものなのだろうか)とあった。厳公の用例が『漢書』に多いことからみても、後漢の避諱と説明するほうがオッカムの剃刀ですっきりする。思いつきで考えた自説はまたあっさり爆沈したようだ。珍しくオチがついて良かった(泣)。
「鴻臚井碑」について
国宝級・唐の石碑「鴻臚井碑」はなぜ皇居に眠っているのか…中国の市民団体が訴える「返還」を考える:東京新聞デジタル
日露戦争時の略奪文物である「鴻臚井碑」に中国から返還要求が出ているという話である。
現行のWikipedia「鴻臚井」記事では、「渤海郡王に冊封した事実を記録している」といっているが、
「鴻臚井碑」の「勑持節宣勞靺羯使鴻臚卿崔忻井兩口永為記驗開元二年五月十八日」という短い碑文本文からは直接に大祚栄を「冊封した事実」は読み取れない。ただ『旧唐書』北狄伝の「睿宗先天二年,遣郎將崔訢往冊拜祚榮為左驍衞員外大將軍、渤海郡王」や『新唐書』北狄伝の「睿宗先天中,遣使拜祚榮為左驍衞大將軍、渤海郡王」の記述が裏付けられる石刻資料なので、重要なのだ。
なおブコメでは高句麗・渤海の帰属をめぐる中韓朝の歴史認識問題を心配する向きがある。
だがこの件に関しては、唐の鴻臚卿崔忻が渤海国からの帰路に現在の大連市旅順口区で井戸を掘り、その記念に建てた石碑である。碑文本文に付記された題記も、明の查応兆や清の額洛図・耆英・劉含芳らのもので、朝鮮・韓国の人はいない。朝鮮・韓国に返還する筋はありえないだろう。「中国に返還」するのが問題だと考えるなら、大連市なり遼寧省なりに返還すべきだろう。
臧丈人説話について
『荘子』外篇田子方に周の文王が釣り針をつけずに釣りをしている「臧丈人」に出会って政治を任せる説話がある。周の文王が釣り人を迎えるところから、太公望説話の亜種と思われるところである。しかし、この臧丈人は文王のもとで3年国政をみたが、文王に大師に任じられそうになると、逃亡して姿を隠してしまう。『史記』斉太公世家にみえる太公望呂尚と同一人物とはとても思えない。これは太公望説話から派生した話ではなく、逆に太公望説話が成立する以前の源流の説話のひとつを伝えたものではないかと考えられる。
金文に「文祖甲斉公」はいても、斉太公はみえない。『史記』斉太公世家が太公望について三種の説話を紹介しているように、太公望の人物像が複数の説話の混合であるのは疑いない。太公望は周の文王よりはるかに伝説的な人物であると評しても、言い過ぎということはあるまい。
端午の節句に「ちまき」を食べる風習の起源
「ちまき」を故人に供える風習は屈原祭祀より古いらしい。
端午食粽起源有了考古实证(人民网)
2015年に出土した河南省信陽市の城陽城遺跡8号墓の40個の「植物包」や2024年に出土した安徽省淮南市の武王墩1号墓の200個あまりの「植物包」によって、屈原の幼年時代の楚国にはすでに「ちまき」を墓葬祭祀に用いていたことが判明した。
かつては安徽省南陵県の鉄拐北宋墓出土の「ちまき」が最古のものとされていたが、一気に1300年あまりも遡ったかたちとなった。
ただ「ちまき」を墓葬祭祀に用いていたのが屈原より古いとしても、「端午の節句」との関連が実証されたわけではなさそうなのだが。
拓跋氏が李陵の末裔との説
『南斉書』魏虜伝はその冒頭で「魏虜,匈奴種也,姓托跋氏」(魏虜は、匈奴種である。姓は托跋氏)と述べていて、拓跋匈奴説の元ネタになっているのだが、もうひとつ面白いことが書かれている。
「初,匈奴女名托跋,妻李陵,胡俗以母名為姓,故虜為李陵之後,虜甚諱之,有言其是陵後者,輒見殺,至是乃改姓焉」(かつて匈奴の娘に名を托跋という者があり、李陵にめあわされた。胡俗により母の名をもって姓とした。このため魏虜は李陵の後裔となったが、魏虜はこのことを忌み、李陵の後裔という者があると殺された。ここにいたって元氏と改姓したのである)という記述である。北魏拓跋氏を漢の李陵の子孫とする説である。なお『宋書』索虜伝にも「索頭虜姓託跋氏,其先漢將李陵後也」と書かれているので、南朝系史料に特有の所伝である。
そのへんのことはすでに他所で指摘されているのだが、やはり異説の魅力には抗えないので、重言の弊を避けなかった次第だ。
歴史的な信憑性ということでいえば、「胡俗以母名為姓」というあたりからして怪しいものだと思われる。
知られざる劉邦の部下・范因
『晋書』楽志上に「漢高祖自蜀漢將定三秦,閬中范因率賨人以從帝,為前鋒」(漢の高祖劉邦が蜀と漢中から起兵して三秦を平定しようとしたとき、閬中の范因が賨人を率いて劉邦に従い、先鋒をつとめた)という。范因という人物は『史記』や『漢書』に見られない。斠注は「因」を「目」に作るべきだといい、『文選』蜀都賦注引『風俗通』も「目」としているという。『風俗通』には「巴有賨人,剽勇。閬中人范目說高祖,募取賨人定三秦」(巴に賨人があり、敏捷勇敢であった。閬中の人范目が賨人を募集して三秦を平定するよう高祖劉邦に説いた)とあるようだ。『華陽国志』巴志にも「閬中人范目,有恩信方略,知帝必定天下,說帝,為募發賨民」とある。「范目」としても『史記』や『漢書』に見られないのは変わらない。閬中は現在の四川省北東部の閬中市にあたる。「賨」は現在の重慶市あたりを根拠とした民族集団で、五胡十六国時代に「成漢」を建国したことで知られる。
上述の楽志上のつづきには、「及定秦中,封因為閬中侯,復賨人七姓」(劉邦が秦中を平定すると、范因を封じて閬中侯とし、賨人七姓にもどした)という。『華陽国志』巴志では、范目は「長安建章鄉侯」とされ、「閬中慈鄉侯」に徙封されたとする。やはり『史記』や『漢書』に閬中侯に封ぜられた人物は確認できない。楽志上によると、劉邦は賨人の「巴渝舞」という楽舞を気に入って、楽人にこれを習わせたそうである。
ところで『三国志』の蜀の張飛は閬中で部下の范彊・張達に殺されているのだが、范彊ってもしかして……。いやいや揣摩臆測を信じてはいけません。
