600年の時を超え、一瞬の輝きを見せた「客星」の謎が解明される(ギズモード・ジャパン)
明の永楽六年(1408年)に現在のはくちょう座やこぎつね座にあたる領域で観測された「客星」が新星によるものだったと判明したニュースです。
この星は『明太宗実録』に「夜,中天輦道東南有星如盞大,黃色光潤,出而不行,蓋周伯德星云」とあり、また翰林学士の胡広の『賀瑞星表』に「欽天監奏,永樂六年十月初六日昏初刻,中天輦道南有星見,大如盞,色正黃,光潤煜然。測候十日,安靜不行。按占書,此為瑞星,見則天下和平,一名德星」と記録されていました。
https://c.m.163.com/news/a/KAKFB0G805118OGM.html
ちなみに『明史』には永楽六年のこの星の記録はありません。もしかしたら『明史』天文志三客星条の「永樂二年十月庚辰,輦道東南有星如盞,黃色,光潤而不行」の記録が年代違いである可能性もあるかもしれません。
宋代の字謎
2021年に山東省青島市西海岸新区で北宋から金初のころの山陳墓地が発掘されました。出土した銅鏡に「人有十口,前牛無角,後牛有口走」という字謎が浮き彫りされていたとのこと。
https://baijiahao.baidu.com/s?id=1865770898937981138
解答は「甲午造」だそうですが、みなさん分かりました?亭主にはさっぱり分かりませんでした。「人有十口」が「甲」、「前牛無角」が「午」、「後牛有口走」が「造」らしいです。どうやら宋代にはほかにもこれの類例があるようです。
沙門島に流された人々
五代十国時代の後期から北宋にかけて唐突に現れる登州沙門島(現在の山東省煙台市蓬莱区廟島あるいは北長山島)への配流に処せられた人々のリスト。おそらく後蜀や南漢が残っていて定番の嶺南や黔南に配流できないため、東海の沙門島に流す決まりができたものと思われるが、十国が滅びた後もしばらく残っているのが、遺制というものである。
安友規(『旧五代史』漢書隠帝紀下)
王紹隠(『旧五代史』漢書隠帝紀下)
斉蔵珍(『旧五代史』周書太祖紀四および斉蔵珍伝)
薛訓(『旧五代史』周書世宗紀一)
李知損(『旧五代史』周書世宗紀二および李知損伝)
趙守微(『旧五代史』周書世宗紀三)
韓倫(『旧五代史』周書世宗紀四)
路延規(『旧五代史』周書恭帝紀)
李藹(『宋史』太祖紀二)
馮瓚・李美・李檝(『宋史』太祖紀二)
劉祺(『宋史』太祖紀三)
高清(『宋史』真宗紀三)
李克用の容貌を復原
復旦大学の科学技術考古チームが唐末の河東節度使李克用の容貌を復原したとの報。
https://www.news.cn/20260506/08f0fbf40c8443e4a3be4a3793129366/c.html
「独眼竜」な姿ではないですね。
韓家村十六国墓の発見
陝西省西咸新区空港新城原韓家村で五胡十六国後期の大型墓を発見したとのこと。
http://hsb.hspress.net/system/2026/0423/240172.shtml
韓家村で発見された4基の墓のうち4号墓がスロープ状の墓道をもつ双室土洞墓で、平面は「干」字形を呈しており、南北の長さが85メートル、墓室の深さが16.5メートル。墓道から2つの過洞・2つの天井・封門・前甬道・前室・後甬道・後室・壁龕などの構成。残念ながら盗掘を受けており、出土した器物はわずか17件。陶侍女俑・陶牛車・陶罐・陶盆・陶磚・磁瓶・銅部材・銅銭および鉄門環などの器類であるそうで。
五胡十六国後期の皇族墓の可能性が指摘されており、とすると後秦墓なのか、夏墓なのか。
義渠が殷代からいたとは信じられない
https://baike.baidu.com/item/%E4%B9%89%E6%B8%A0/2942996
https://gishinnanboku.blog.fc2.com/blog-entry-3426.html
『竹書紀年』に「(武乙)三十年,周師伐義渠,乃獲其君以歸」とあるのはあるのだけれど、これは『竹書紀年』でも偽作で知られる今本のほうの記述であって、信用するのは難しい。まあ仮に古本の記述でも、戦国魏からみた殷代以前の記述をそのまま信用するのは微妙すぎるけれども。
むしろ義渠については、秦が義渠を滅ぼした後のほうが興味深く、『漢書』鼂錯伝に「今降胡義渠蠻夷之屬來歸誼者,其衆數千」と言っていたり、同じく『漢書』趙充国伝に「義渠安國」という義渠姓の人物がいたりする。前漢に帰属した義渠集団がいたのではないかと思われる。
中国で観測されたオーロラ
どこかで言及したことはあるのだが、ブログでは書いたことがないような気がするのでまとめておく。オーロラは中国史料では「赤氣」と書かれる。「赤氣亙天」「赤氣起北方」「赤氣如火」などといわれる。日本の藤原定家『明月記』に建仁四年(1204年)のオーロラの記録があるそうだが、対応する南宋の寧宗の嘉泰四年(1204年)にも「(二月)庚申,夜有赤氣亙天」という記録がある。北緯約30度という低緯度の杭州臨安府でオーロラが観測されたということは、この年のオーロラの異常性が知れる。より高緯度の北京・長安・洛陽・開封でのオーロラの記録は珍しくない。
なお赤氣は「血祥」とされ、凶兆とみなされていた。嘉泰四年二月の赤氣の場合は、直後の三月に臨安府の火災が記録されている。