皇侃を「おうがん」と読む話

国宝発見のきっかけは東京・神保町の古書店 価値を見抜いた慶應大教授の眼 | 朝日新聞Thinkキャンパス

 南朝梁の皇侃『論語疏』巻第六の写本が東京神田神保町の古書店で発見されたというニュースだが、記事の画像をみたところ、末尾の著者名が「王侃」になっている。ところで皇侃はなぜか「おうがん」と姓を呉音で、名を漢音で読むのが例になっている。中国人名は漢音で読むのが現代日本では通例であるが、『三国志』で有名な皇甫嵩などは「こうほすう」と姓を漢音、名を呉音で読むというこれまたねじれた癖が発生している。長年不思議に思っていたのだが、「王侃」と通用していたなら「おうがん」と読むのも不思議もないかもしれない。いやどうだろうな。

楚の爵制

 秦末の楚の爵制に上閒・七大夫・五大夫・執帛・執珪などの爵位があったらしいことは、『史記』樊酈滕灌列伝や『漢書』樊酈滕灌傅靳周伝にみえる。五大夫は秦漢の二十等爵にもあり、七大夫は秦漢の二十等爵の第七等の「公大夫」の別称であるとの説もある。だが執帛について『史記集解』曹相国世家所引張晏は「孤卿也。或曰楚官名」といい、執珪については『史記』楚世家に「昭陽曰,其官為上柱國,封上爵執珪」とある。執帛や執珪が楚の爵位であることに異論は少ないようだ。

七日不食

 『荀子』宥坐篇に「孔子南適楚,厄於陳蔡之間,七日不火食」(孔子が南方の楚に行き、陳と蔡のあいだで災難に遭い、七日火食しなかった)というのがみえ、類話は先秦や漢代の文献のいくつかにみえる。このとき孔子の弟子の子路が切れたのは言うまでもない。また『史記』陳丞相世家に「卒至平城,為匈奴所圍,七日不得食」(高帝劉邦がついに平城にいたって、匈奴に包囲され、七日食を得られなかった)というのがあり、『漢書』陳平伝ほかに同様の記録が残る。これらの「七日不食」は包囲されて困窮することの表現のようでもある。
 ところが『梁書』諸夷伝扶桑条には「親喪,七日不食」(親の喪には七日食事をしない)とあり、『隋書』南蛮伝真臘条には「其喪葬,兒女皆七日不食」(その喪葬には、児女はみな七日食事をしない)とあって、外国の葬礼の決まりとして「七日不食」が登場する。
 さらに『明史』列女伝には、夫の死後「七日不食」して死んだ史氏や白氏の記録が残されている。

晁錯と朝錯

 前漢景帝のとき、削藩政策を進めて呉楚七国の乱を招いた御史大夫「晁錯」(鼂錯)という人物が『史記』や『漢書』に見える。この晁錯が「朝錯」と書かれている例が同じく『史記』や『漢書』にいくらかみられる。『漢書』景帝紀顔師古注は「晁,古朝字」といい、実際に晁は「あさ」と訓まれるようである。とくに「晁」字や「鼂」字を避諱しなければならない事情はなさそうだし、字義の同じ字が同時に通用していたのだろう。

正史の本紀と列伝の紀年が矛盾している場合

 以下は雑駁な一般論で例外はあるが、史料批判の物差しのひとつにもなろうかと書いてみることにする。正史の本紀と列伝の紀年が矛盾している場合、たとえば個人の官歴なら本紀が正しいことが多い。本紀は実録や起居注を参照して書かれているので、官の叙任年月日は正確なことが多い。列伝は誄文などがもとなので、雑な紀年を示していることも少なくない。墓誌の記録であっても、誄文がもとである事情は変わらないので、本紀の紀年のほうが信憑性が高い。
 個人の死没年月日の場合、本紀は死去が報告された年月日で書かれていることがあり、実際よりやや遅れる傾向にある。墓誌が出土してる場合(もちろん墓誌が偽碑であれば問題外だが)、墓誌がもっとも信憑性が高いとみられる。本紀と列伝の信憑性の比較は微妙である。

 …ここまで書いて、

にほぼ同じ内容をすでに書いていたことに気づくなど。

秦の華陽太后の墓を発見か




 陝西省咸陽市渭城区の戦国時代後期の上召窯秦陵が秦王クラスの大墓で、その墓主が秦の華陽太后の可能性があるとの研究者の推測が出ているようだ。陶器・銅器・鉄器・鉛器・玉器・琉璃・骨器などが出土しており、陶器には「咸廣裡高」「咸重成未」「咸宜都次」などの文字があったとのこと。また銅鼎には「宋氏」の銘文があったとな。
 上召窯秦陵には陪葬墓が45基あり、そのうち性別を鑑定できた33基の墓中の全員が女性で、年齢は45歳から50歳までに集中していたとのこと。秦陵の雑役婦か宮女とみられる。

酇侯

 『史記』蕭相国世家漢五年条に「高祖以蕭何功最盛,封為酇侯」とあり、紀元前202年に蕭何が漢の高祖劉邦により酇侯に封じられたらしいことがわかる。同書漢興以来将相名臣年表によると、高祖六年のこととして「封為酇侯」とあり、翌年のこととされている。酇侯国は南陽郡に属し、現在の湖北省襄陽市穀城県固封山の北とされる。
 『漢書』蕭何伝に「孝惠二年,何薨,諡曰文終侯。子祿嗣,薨,無子。高后乃封何夫人同為酇侯,小子延為筑陽侯。孝文元年,罷同,更封延為酇侯」とある。紀元前193年に蕭何が死去し、子の蕭禄が後を嗣いでいる。蕭禄が死去し、子がなかったために呂太后が蕭何の夫人の同を酇侯に封じ、蕭何の末子の蕭延を筑陽侯に封じた。紀元前179年に文帝が同を削封し、あらためて蕭延を酇侯に封じている。また『史記集解』孝文本紀所引如淳が「時呂嬃為林光侯,蕭何夫人亦為酇侯」ともいっているが、これは呂太后が女性たちを侯に封じたことを示している。
 『漢書』百官公卿表下によると、孝景七年(紀元前150年)のこととして、「酇侯蕭勝為奉常」とある。蕭勝と蕭何との関係は不明である。
 『漢書』蕭何伝に「武帝元狩中,復下詔御史,以酇戶二千四百封何曾孫慶為酇侯 ,布告天下,令明知朕報蕭相國德也」とある。武帝の元狩年間(紀元前122年~紀元前117年)、蕭何の曾孫の蕭慶が酇侯に封じられたらしいことがわかる。
 『漢書』百官公卿表下によると、元封四年(紀元前107年)のこととして、「酇侯蕭壽成為太常,坐犧牲不如令論」とみえる。『史記集解』三王世家所引徐広に「蕭何之玄孫酇侯壽成,後為太常也」とあって、これを裏づけ、蕭寿成が蕭何の玄孫であると伝わる。
 『漢書』宣帝紀地節四年条に「故酇侯蕭何曾孫建世為侯」とあり、紀元前66年に蕭何の曾孫の蕭建世が酇侯に封じられているらしいことがわかる。『史記』建元以来侯者年表では「地節三年,天子下詔書曰,朕聞漢之興,相國蕭何功第一,今絕無後,朕甚憐之,其以邑三千戶封蕭何玄孫建世為酇侯」とされており、蕭建世は蕭何の玄孫とされており、封建も前年のこととされ、微妙な相違がみられる。『漢書』蕭何伝が蕭何の玄孫としているので、玄孫が正しいのかもしれない。
 『漢書』百官公卿表下によると、永始四年(紀元前13年)のこととして「酇侯蕭尊為太常,六年薨」とある。この蕭尊と蕭何との関係は不明である。
 『漢書』成帝紀元延元年条に「封蕭相國後喜為酇侯」とあり、紀元前12年に蕭何の後裔の蕭喜が酇侯に封じられている。『漢書』蕭何伝では「成帝時,復封何玄孫之子南䜌長喜為酇侯」とあり、蕭喜は蕭何の玄孫の子ということになる。前段の蕭尊の記事とともに信じるなら、同時に酇侯が二人いたことになり、矛盾は免れない。
 『後漢書』鄧禹伝によると、西暦25年に後漢の光武帝が皇帝に即位すると、鄧禹を酇侯に封じた。また同書臧宮伝では37年に臧宮を酇侯に封じた。酇侯の侯位は別氏に移ったようである。ところが同書韋彪伝によると、82年に蕭何の子孫が捜索され、「封何末孫熊為酇侯」、つまりは蕭何の末裔の蕭熊が酇侯に立てられているのである。それ以後の酇侯国の動向は不明である。