「泥のように眠る」の「泥」はたぶん海中生物です

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「泥のように眠る」の「泥」は生物のことなのか?
https://anond.hatelabo.jp/20240308231551
の記事(以下、増田記事と略す)が面白かったので、少し調べてみました。

 まずは最古の漢字字典といわれる後漢の許慎『説文解字』巻十一上、水部の「泥」を引くと、
「水出北地郁郅北蠻中」
とありまして、どうやら漢代には「泥」は北地郡郁郅県の北の蛮中に発する川を意味していたらしいですね。漢の郁郅県は現在の甘粛省慶陽市慶城県のあたりのようです。「泥」はもともと川の名前!!本題からいうと、どうでもいいことからはじめました。

 つぎに時代は1600年ほど下って清代の漢字字典として最も知られている『康熙字典』で「泥」を引いてみます。前段に挙げた川の名前やら私たちが良く知っている「水和土」(水と土の混合物)やら、泥の意味がいくつも解説されているのですが、その中に
「又蟲名,出東海,得水則活,失水則如泥。【杜甫詩】先拚一飮醉如泥。」
というのがありました。増田記事のお題にグンと近づいてきました。
 増田記事は沈如筠『異物志』を引いて
「泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。」
を挙げていましたね。内容がわりと似ています。もちろん唐代の『異物志』のほうが清代の『康熙字典』よりはるかに先行しているのですが、ここでは変化や違いのほうに注目してみましょう。
 『康熙字典』の挙げる杜甫詩とは、杜甫「將赴成都草堂途中有作先寄嚴鄭公五首」にある「先判一飲醉如泥」を引いているようです。一字違う…、まあ気にしないでおきましょう。
 唐の杜甫の詩に「醉如泥」とあるあたり、唐の沈如筠や後漢書李賢注や李白を挙げて「その頃には『酔如泥』という言い回しが広まっていたことがわかる」と喝破した増田記事の見解は支持されると思われます。
 増田記事も取りあげていた宋の呉曾『能改斎漫録』巻七は「南海有蟲,無骨,名曰泥,在水中則活,失水則醉,如一塊泥然」といっていますし、明の張岱『夜航船』巻十七は「南海有蟲,無骨,名曰泥,在水中則活,失水則醉,如一塊泥」とほぼ同じ内容を引いています。先に挙げた『康熙字典』がこの蟲の住むところを「東海」としていたのに対して、これらでは「南海」としています。なお古代中国における「蟲」は昆虫を指すとは限らず、あらゆる動物を「蟲」と呼んでいますので、「生物のことなのか?」という増田記事の問いは妥当です。海に住んでいるのですから、空を飛ぶ昆虫ではないでしょう。

 さて最後に肝腎の「泥のように眠る」について。結論だけが増田記事と異なります。
 『西遊記』第七十七回に「鼾睡如泥」(泥のようにいびきをかいて眠る)とあり、明代には「泥のように眠る」表現は登場していたようです。いびきをかいて眠るのですから、生物的イメージを持たれていたのは間違いありません。清代の蒲松齢『聊斎志異』巻六に「則醉睡如泥」(泥のように酔って眠る)というのもありまして、ここで引き合いに出されている泥も、酔っぱらい生物の泥が眠っているのだと思われます。

二王後三恪

 『漢書』王莽伝中に「周以舜後并杞、宋為三恪也」とあり、周代には舜の後裔と杞(夏の後裔)と宋(殷の後裔)を三恪としていたという。いっぽう『三国志』魏書崔林伝は「周武王封黃帝、堯、舜之後,及立三恪」とあり、周の武王は黄帝・堯・舜の後裔を三恪に立てたといっている。『北斉書』孝昭帝紀に「但二王三恪,舊說不同」とあって、二王三恪について旧説に混乱があることを認めている。
 『新唐書玄宗紀によると、唐の玄宗は天寶七載に「魏周隋為三恪」とし、天寶九載に「商周漢為三恪」とし、天寶十二載に「復魏周隋為三恪」とするなど、制度をころころ変えている。唐を漢の継承王朝とみなすか、隋の継承王朝とみなすかのあいだで揺れ動いたのだが、隋の継承王朝とみなす立場で決着する。『新唐書』王勃伝によると、楊国忠が右相となったときに魏を三恪とし、周・隋を二王後とし、酅国公と介国公の旧封を戻させたのだという。
 『旧五代史』梁書太祖紀四によると、唐代には後魏の元氏の子孫である韓国公を三恪とし、北周の宇文氏の子孫を介国公とし、隋の楊氏の子孫を酅国公とすることで、二王後としていた。五代の後梁は開平2年12月に唐室の李氏の子孫の李嵸を萊国公とすることで、酅国公・萊國公を二王後とし、介國公を三恪とするよう改めたという。

 北魏西魏の元氏の子孫である韓国公については、『周書』明帝紀に「(明帝二年九月)甲辰,封少師元羅為韓國公,以紹魏後」とあり、元羅という人物が北周の明帝により韓国公に封ぜられ、魏の後を嗣いだことになっている。この元羅は北魏武帝の子の陽平王拓跋煕の子の南平王拓跋渾の子の南平王拓跋霄の子の江陽王元継の子にあたる。
 『周書』武帝紀上に「(天和三年)八月乙丑,韓國公元羅薨」「(天和四年五月己丑)封魏廣平公子元謙為韓國公,以紹魏後」とあり、元羅の死後は、元謙という人物が韓国公となっている。元謙は西魏の十二大将軍のひとりである広平公元賛の子とされる。北魏の孝文帝の玄孫にあたる。
 ところで唐代には張仁亶・張仁愿・苗晋卿・魚朝恩・魚弘志ら元氏以外の人物が韓国公となっているのが目立つ。『新唐書』宰相世系表五下によると、元謙の後は元菩提・元寶琳が国公位を世襲し、元昭・元穎・元庭珍と続いたが、元伯明の代に韓公を嗣ぎ、元紹俊・元文贄が公位を世襲していることになっている。宰相世系表の史料的評価が高くないこともあいまって、矛盾を妙に整理しないほうが良いのかもしれない。後考を待つ。

 北周の宇文氏の子孫の介国公については、『周書』静帝紀に「隨王楊堅稱尊號,帝遜于別宮。隋氏奉帝為介國公,邑萬戶」とあり、『隋書』高祖紀上に「(開皇元年二月)己巳,以周帝為介國公,邑五千戶,為隋室賓」とある。
 『周書』の1万戸、『隋書』の5000戸と封邑数に矛盾があるが、北周最後の皇帝である静帝が隋初に介国公に封ぜられたのは間違いないところだろう。同じく『隋書』高祖紀上に「(開皇元年五月)辛未, 介國公薨」とあり、『周書』虞國公仲子興伝に「及靜帝崩,隋文帝以洛為介國公,為隋室賓云」とある。
 静帝の死後、宇文洛という人物が隋の介国公になる。この宇文洛という人は北周の太祖宇文泰の父の宇文肱の従父兄の宇文仲の子の宇文興の子という続柄で、北周の皇室からいうと傍流もいいところであったりする。
 『旧唐書』穆宗紀に「(元和十五年正月)甲寅,二王後介國公宇文仲達卒」とあるように、二王後として唐代にも庇護されていた。

 隋の楊氏の子孫の酅國公についてはhttps://nagaichi.hatenablog.com/entry/2021/08/21/112938
にかつて書いたことがあるので、繰り返さない。

 かつて戦国時代や魏晋南北朝時代といった戦乱の時代には、先代の王朝の皇族を根絶やしにし、敵対国家の祭祀を断絶させる暴力が横行した。「二王後三恪」の制度は先代の王朝の皇族を現王朝の諸侯として庇護することで、いつの日か滅びる自身の王朝の将来の祭祀をも庇護しようとした中国王朝の悲しい知恵であったといえるかもしれない。

北斉高氏が鮮卑である6つの理由

 姚薇元『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局,2007)pp.146-148に北斉高氏の出自を考証されているので紹介します。姚薇元はまず『魏書』官氏志の「是楼氏が後に改めて高氏となった」を引き、『通志』氏族略や『古今姓氏書弁証』の「是婁氏が改めて高氏となった」を挙げています。「楼」と「婁」は同音異訳であるといいます。高歓の曾祖父の高湖は漢の太傅の高裒の後裔とされていますが、漢代を扱った史書には太傅の高裒という人物はいないと姚薇元は指摘しています。
 姚薇元は高斉がもとは鮮卑族の出身であることを6つの証拠を挙げて説明しているので、ここは端折らずに訳出しておきます。
1.『北斉書』巻24杜弼伝に「顕祖(文宣帝高洋)がかつて杜弼に『国を治めるには何人を用いるべきか』と訊ねたことがあった。杜弼は『鮮卑は車馬の客であり、必ず中国人を用いなければなりません』と答えていった。顕祖はこの言葉は自分を謗ったものであるとみなした」とある。高洋は自ら鮮卑人と認めていた。これが高斉が鮮卑族である証の一である。
2.『北斉書』巻2神武紀下に「侯景はもともと世子(高澄)を軽んじており、かつて司馬子如に『王(高歓)がいれば、わたしはあえて異をなすことはないが、王がいなければ、わたしは鮮卑の小児と事を共にすることはできない』といったことがあった」とある。侯景は高澄を鮮卑の小児と罵っている。これが高斉が鮮卑族である証の二である。
3.『北斉書』巻5廃帝紀に「廃帝高殷は、文宣帝の長子である。母は李皇后(趙郡の李希宗の娘)といった。文宣帝はことあるごとに『太子は漢家の性質を得ており、わたしに似ていない』と言っていた」とある。高洋は自ら漢家ではないと言っている。これが高斉が鮮卑族である証の三である。
4.『北斉書』巻9文宣李后伝に「趙郡の李希宗の娘である。初め太原公夫人となった。文宣帝が中宮を建てようとしたとき、高隆之と高德正は『漢族の婦人は天下の母となることができません。改めてふさわしい配偶者を選んでください』といった」とある。漢族の婦人は帝后となることができない。これが高斉が鮮卑族である証の四である。
5.『北斉書』巻34楊愔伝に「常山王(高演)が楊愔らを捕らえて官に入れたが、まだ刑戮していなかった。廃帝(高殷)は『天子がどうしてあえてこの漢輩を惜しもうか。これらは叔父の処分に任せたい』といった」とある。高殷は楊愔らを漢輩としてしりぞけている。これが高斉が鮮卑族である証の五である。
6.『隋書』巻22五行志服妖類に「後斉の文宣帝末年、帝はたびたび胡服を着て、市里をしのび歩きした。斉氏は陰山に出自しており、胡服を着るのは、もとの服に返ろうとするものである」とある。斉氏は陰山の出自で、もとは胡服を着ていた。これが高斉が鮮卑族である証の六である。
 以上6つの証拠をもって、姚薇元は北斉高氏が鮮卑であるとし、もとの姓は是婁としています。その先祖は慕容燕から北魏に帰順し、高氏に改めたとしています。隋の吏部侍郎の高孝基や唐の宰相の高士廉らもみなもとは鮮卑族だというのです。最後に私見を述べておくと、高歓からして軍中では鮮卑語で話していた(『北斉書』巻21高昂伝)といわれる人であるので、姚薇元説は自然な説でしょう。Wikipedia日本語版が「高句麗人出身」とか書いているのが付会珍説の類かと思いますね。

侯莫陳氏と白水郡

 侯莫陳相の父の斛古提は「朔州刺史、白水郡公」であったという(『北斉書』侯莫陳相伝)。
 侯莫陳相自身も北斉天保七年春正月辛丑に「白水郡王」に封ぜられている(『北史』斉紀中)。
 侯莫陳悦は北魏の建明中に車騎大将軍、渭州刺史に任じられ、爵位を白水郡公に進められた(『周書』侯莫陳悦伝)。
 侯莫陳氏がやたら白水郡の封爵を得ている理由は判然としない。

東魏安平王始末

 『北斉書』宋遊道伝に「魏安平王坐事亡、章武二王及諸王妃・太妃是其近親者皆被徵責」とある事件については良く分かっていない。「魏安平王」とはおそらく北魏後廃帝の子の元黄頭のことであり、「章武二王」は章武王元景哲ともうひとりの誰かのことではないかと思われる。元景哲は後廃帝の兄にあたる。いずれにせよ東魏の高澄執政期に安平王元黄頭が事件に連座して逃亡し、その近親者の元氏皇族が処罰されたように読める。しかし『魏書』景穆十二王列伝下によると、元黄頭は「安平王」となったことはたしかなものの、「齊受禪,爵例降」とあって、北斉が建つまでは失脚したように読めない。逃亡した当人が逃げ得で処罰されなかったなどということがあるだろうか。

蒙塵

 「蒙塵」というと、唐の玄宗安史の乱に際して長安を捨てて蜀に蒙塵したのが有名ですが、史書に見える蒙塵の例はもちろんそれだけではありません。
 『後漢書』荀彧伝で荀彧が曹操に語る言葉の中に「天子蒙塵」とあり、これは後漢献帝董卓によって長安に移されたことを指しています。
 『晋書』懐帝紀永嘉五年条に「帝蒙塵于平陽,劉聰以帝為會稽公」とあり、西晋の懐帝が劉聡に捕らえられて、平陽に連行され、会稽公とされたことを記録しています。
 『晋書』安帝紀元興二年条に「辛亥,帝蒙塵于尋陽」とあり、これは東晋の安帝が桓玄によって廃位され、尋陽に送られたことを示しています。
 『梁書』王僧弁伝に「宮城陷沒,天子蒙塵」とあり、これは侯景の乱によって、梁の首都建康が陥落したところの記述です。しかし梁の武帝は侯景に捕らえられて幽閉された末に衰弱死しており、建康から逃げ出していないことには注意が必要です。
 『魏書』李恵伝に「及莊帝蒙塵,侃晞奔蕭衍」とあり、これは北魏の孝荘帝が爾朱兆らによって晋陽に連行されたことで、李侃晞が南朝梁に亡命したことを示しています。
 『旧五代史』趙鳳伝に「及閔帝蒙塵于衞州」とあり、これは後唐の閔帝が李従珂に追われて洛陽を放棄し、衛州に逃れたことを指しています。
 『明史』聊讓伝に「逆寇犯順,上皇蒙塵,此千古非常之變」とあり、これは明の英宗が土木の変によりオイラトに連行されたことを指しています。
 ここまで一部の用例を挙げただけですが、君王が自ら逃亡した例だけではなく、強制的に連行されたとみられる例も少なくないことが分かります。また『梁書』王僧弁伝のように場所の移動すらみられない例もありました。ここは原義どおり「塵を蒙(かぶ)る」という意味で「蒙塵」と使われているのかもしれません。

「砲」と「炮」

 「てっぽう」というと、亭主の世代は石偏の「鉄砲」で習ったものだが、最近は日本史界隈を中心に火偏の「鉄炮」で書かれることも増えてきたように思う。
 近世の中国の火器の「ほう」はどうなのかというと、石偏の「砲」や「礮」で書かれたものが多そうだ。火偏の「炮」の用例は火器に使われるものももちろんあるが、漢方薬に対して使われるもののほうが多いように思われる。