長安の植物園

 扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(アクイラリア・シネンシス)と指甲花(ホウセンカ)が百本あった。龍眼(リュウガン)・荔枝(レイシ)・檳榔(ビンロウ)・橄欖(カンラン)・千歳子(フジ属)・柑橘(ミカン属)はそれぞれ百本あった。気候が南北で異なるため、歳時を経ると多くは枯れてしまった。荔枝については交趾から百株を庭に移植し、ひとつも生えるものがなかったが、連年移植してやめなかった。数年後、たまたま一株がいくらか成長し、花や実をつけることはなかったが、武帝はこれを大切にした。ある朝に枯死し、守吏で連座して処刑される者が数十人におよんで、再び蒔かれることはなかった。歳貢によって庭園は維持されたが、植物を運ぶ者がたびたび道中で過労死し、民衆の苦難の種になっていた。後漢の安帝のときにいたって、交趾郡守の唐羌がその弊害を上奏して、ようやく奇草異木の歳貢は廃止された。(『三輔黄図』巻3) 

 

 なお、扶荔宮は上林苑の中にあったとする『三輔黄図』の記述は誤りで、実際には左馮翊夏陽県(現在の陝西省韓城市芝川鎮の南)にあったらしい。

代王嘉はなぜ代王を称したのか

 戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の邯鄲を陥落させる(『史記』秦始皇本紀始皇十八年および十九年の条)と、幽繆王は捕らえられた。このとき趙嘉は代の地に逃れて、自立して王を称した。趙嘉は代王嘉と史称される。代王嘉の政権は紀元前222年に秦の将軍王賁に攻め滅ぼされる(『史記』秦始皇本紀始皇二十五年の条)まで続く。趙の亡命政権として位置づけられる。

 代王嘉についての史料は多くないので、本当に代王を称したのか疑えなくもない。戦国時代の例でいえば、史料上で趙を邯鄲、魏を梁、韓を鄭と記述した例があるように、地名による他称である可能性もある。自称は趙王であったが、代王と他称されたとする考えである。ただ史料的根拠に乏しい以上、この疑念も袋小路でしかない。趙嘉は代王を自称したのだと仮定しておこう。幽繆王が房陵に流されて生存していたために、趙嘉も趙王を称するのを遠慮したのかもしれない。としても、なぜ代王を称したのか。

 戦国時代の趙にとって「代」とは何だったのかを考えてみたい。

 春秋時代の諸侯国に代国があった。「代郡城は、北狄の代国」(『史記正義』匈奴列伝)というから、狄(翟)族系の国であったらしい。春秋晋の趙襄子のとき、趙襄子の姉が先代の代王の夫人としてとついでいた。紀元前457年、趙襄子は代王を宴会に招待し、その場で騙し討ちにして代国を奪った。趙襄子の姉はこれを聞いて自殺している。代にはあらたに趙伯魯の子の趙周が封じられた。これが代成君である。趙伯魯は趙襄子の兄で、早死していたので、その子が君として封じられたものである(『史記』趙世家趙襄子元年の条)

 この代成君の子の浣が趙襄子の太子として立てられ、趙襄子の死後に即位して趙の献侯となっている(『史記』趙世家趙襄子十三年の条)。趙の献侯は中牟を都としたが、趙襄子の弟の趙桓子が献侯を追放して代で自立している。趙桓子は1年で死去し、献侯が復位する。献侯の子の烈侯は「代からやってきた」(『史記』趙世家烈侯六年の条)といわれている。趙の武霊王のとき、武霊王は「代相趙固」を燕に派遣した(『史記』趙世家武霊王十八年の条)とあるので、このときに趙の封侯・封君としての代国は存在したのではないか。武霊王は子の恵文王に位を譲ったが、長子の趙章を代の安陽君とし(『史記』趙世家恵文王三年の条)、さらに趙を二分して代王としようとした(『史記』趙世家恵文王四年の条)。趙国二分は実現せず、趙章は反乱を起こして不幸な結果に終わっているが、ここでも戦国趙における代の重要性が分かる。

 ここまでのところをみると、戦国趙における代には封侯・封君の存在をうかがわせるところがあり、趙氏の庶子が封じられる例が少なくなかったのではないか。戦国末期に趙嘉が代王を称したのも、そうした背景が考えられるのである。

連鶏の計

 353年、殷浩が北伐したとき、江逌がその下で長史をつとめた。殷浩は洛陽を占領したものの、姚襄の裏切りで危地に陥った。殷浩が江逌に姚襄を撃つよう命じると、江逌は鶏数百羽を集めて長繩で連ね、その足に火を繋いだ。鶏たちは解き放たれると、姚襄の陣営に向かった。陣営から火が起こり、その混乱に乗じて江逌は姚襄の軍を攻撃して、姚襄は小敗をきっした。(『晋書』巻83江逌伝)

6~7世紀の嶺南とかベトナムとか

 

 南朝梁の頃に馮宝と洗夫人が婚姻関係にありますが、隋末唐初の馮盎と洗宝徹は立場を異にしております。

 

 あまり詳しく書かないし書く力もないが、桂州俚の李氏とか、臨賀の鍾氏とかもそうかなと。

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに何か書いたかと思えば、自ツイートのセルフまとめでありました。このへん特に詳しいわけでもないので、専門家に怒られるために書いた雑駁な駄文でかありません。嶺南とベトナムが地続きであったといわんばかりの素人の浅言ですので、ベトナム史に通じた方からの批判を誘い受けでお待ちしております。

李信は燕の太子丹を討ち取ったのか

ここでは久しぶりに書く気がしますが、別に中国史趣味を忘れてしまったわけではなく、ツィッターあたりでちょくちょく書いていました。ただツィッターでは長文がつらいので、今回はこちらで書きます。
以下は首級がどうとかいう話をしているので、そこが苦手な方は回れ右してください。お題のとおりの話ですが、いちおう歴史話のつもりでして、原泰久『キングダム』の展開とは一切関係ありませんので、お間違いなきようお願いします。現在のところ李信についての唯一の根史料は司馬遷史記』でして、そこからしか語り出せないと思います。

史記王翦列伝
秦將李信者,年少壯勇,嘗以兵數千逐燕太子丹至於衍水中,卒破得丹,始皇以為賢勇。
(秦の将軍の李信は、年若く血気盛んで勇ましく、かつて兵数千をもって燕の太子丹を衍水の中まで追い、ついに丹を破って捕らえたので、始皇はかれを賢く勇敢であるとみなしていた。)

「得丹」というのが生擒とは限らないのですが、李信が燕の太子丹を追撃して破り、「丹を得た」んですね。

史記』李将軍列伝
其先曰李信,秦時為將,逐得燕太子丹者也。
(李広の祖先は李信といい、秦のときに将軍となり、燕の太子丹を追って捕らえた者である。)

やはり李信の手柄を語っているのですが、「燕の太子丹を得た」とされています。

史記』六国年表
二十九 秦拔我薊,得太子丹。王徙遼東。
(燕王喜二十九年、秦が我が薊を抜き、太子丹を捕らえた。王は遼東に移った。)

誰の手柄とも書いていないのですが、やはり「太子丹を得た」とされています。ここまで見た記述では、太子丹がはっきり殺されたように見えないということに注意しておきましょう。

史記』秦始皇本紀
二十一年,王賁攻薊。乃益發卒詣王翦軍,遂破燕太子軍,取燕薊城,得太子丹之首。
(始皇二十一年、王賁が薊を攻めた。そこで始皇はますます兵を動員して王翦の軍に増援し、ついに燕の太子の軍を破り、燕の薊城を取り、太子丹の首級をえた。)

ここで「太子丹之首」(太子丹の首級)が出てくるんですね。ここでの主役は王翦・王賁父子ですが、ここまでみたとおり、秦王政(始皇)二十年から二十一年(紀元前227年〜前226年)にかけての対燕戦に李信が参加していたことは、ほぼ確実視されています。むしろ王賁の参戦のほうが梁玉縄(『史記志疑』巻五)による疑問が入れられていて、六国年表の秦始皇二十一年に「王賁擊楚」とあることから、「王賁攻薊」は「王賁攻荊」の間違いではないかと指摘されてたりします。ただ個人的には梁玉縄説は本紀の文脈的に唐突でおかしい気がしますけれども。

とにかく首級が出てきた以上、残念ながら太子丹が殺されて斬首されたと見るべきなのでしょう。李信の仕業とは書かれていませんが。

史記荊軻列伝
其後李信追丹,丹匿衍水中,燕王乃使使斬太子丹,欲獻之秦。
(そののち李信が丹を追い,丹は衍水の中に隠れた。燕王はそこで使者に太子丹を斬らせ、秦に献上しようとした。)

最後にいちばん問題な部分を持ってきました。太子丹は戦争責任者として燕王喜の手の者に斬られて、(首級が?)秦に送られそうになるという記述です。これまでとずいぶん違う話になってしまっています。太子丹は李信が捕らえたのではなかったのでしょうか。太子丹(の首級)は秦のものにならなかったのでしょうか。ここを含めた『史記』の記述を全て信用してひとつのストーリーを編み上げることも全く不可能ではないでしょうが、かなりギクシャクしたものになりそうです。歴史解釈として蓋然性が低いというものです。宮崎市定が「説話」(宮崎市定『東洋的古代』中公文庫,pp.185-188)とみなした荊軻列伝の記述を排すると、わりとすっきりとしたストーリーになりそうです。

どう解釈しても一解釈にすぎませんが、当面の結論としては、荊軻列伝の記述には惑わされるべきでないとしておきます。秦王政二十年の暗殺未遂事件に端を発した秦軍の対燕戦は、王翦を主将として辛勝・王賁・李信らが参加したと見ておきます。翌二十一年に秦軍は燕軍主力を破り、薊城を奪います。李信は逃亡する太子丹を衍水で追撃して捕らえます。太子丹は殺されて、首級は咸陽に送られたと考えておきます。(李信が殺ったとは言っていません。くどいながら)

唐の最盛期より後漢の領域が広いとみなされている?件

史上最も領土が大きかった帝国トップ20(哲学ニュースnwk)
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5047264.html
このときも思ったのですが、唐の最盛期より後漢が広いってことはないはずなんですね。

帝国の最大領域一覧(Wikipedia日本語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%A4%A7%E9%A0%98%E5%9F%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
なんとWikipedia記事でも、唐の最盛期より後漢が広いことにされているようです。
突厥・高昌・高句麗百済を滅ぼし、西突厥を降した唐の最盛期より、朝鮮半島北部とヴェトナム北部を除けばほぼメインランド・チャイナの領域にとどまる後漢の領域が広い??ですと。ありえないですね。
考え得る誤認の理由を以下に列挙してみました。
1.羈縻政策下あるいは都護府統治下の領域を算入しない。一番ありえそうな理由ですが、これだと唐は相当不利になります。州県(郡県)に編入されていない領域は認めないというのは、基準として厳しすぎると思われます。
2.雲南や朝鮮四郡の領域を過大評価する。これだと後漢はやや有利になりますね。
3.西のローマ帝国、東の漢王朝というくらいだから、後漢は広いに違いない。問題外の言い分に聞こえますが、俗な印象論としてはありうるのかもしれません。古代の帝国は偉大なりですよ。

秦の大将軍について

キングダムで信・王賁・蒙恬は大将軍になれますか?(Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11162587416

無粋な歴史の話をすると、そもそも秦に大将軍の官がなかったんじゃないかという深刻な疑いがありましてな。

『通典』は大将軍の官が戦国時代の楚に置かれたことを指摘しています。
「大將軍、自戰國時楚置」(『通典』巻19職官1)
「自戰國置大將軍,周末又置前後左右將軍,至秦,將軍之官多矣。漢興,置大將軍、驃騎將軍,位次丞相。車騎將軍、衛將軍、左右前後將軍,皆金印紫綬,位次上卿」(『通典』巻28職官10)
時代的には秦に大将軍があっても良さそうなんですが。

しかし秦代についての根史料というべき『史記』には、秦の「将軍」の例が複数あるものの、秦の「大将軍」の例をひとつも見出せないんですよね。
「秦昭王怒,使將軍摎攻西周」(『史記』周本紀)
「八年,使將軍羋戎攻楚,取新市」(『史記』秦本紀)
「其十月,將軍張唐攻魏,為蔡尉捐弗守,還斬之」(同上)
「五十一年,將軍摎攻韓,取陽城、負黍,斬首四萬」(同上)
「麃公等為將軍」(『史記』秦始皇本紀)
「晉陽反,元年,將軍蒙驁擊定之」(同上)
「十月,將軍蒙驁攻魏氏畼、有詭」(同上)
「五年,將軍驁攻魏,定酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽城,皆拔之,取二十城」(同上)
「將軍驁死」(同上)
「八年,王弟長安成蟜將軍擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。將軍壁死,卒屯留、蒲鶮反,戮其屍」(同上)
「桓齮為將軍」(同上)
「秦使將軍王賁從燕南攻齊,得齊王建」(同上)
「始皇乃使將軍蒙恬發兵三十萬人北擊胡,略取河南地」(同上)
「右丞相去疾、左丞相斯、將軍馮劫進諫曰」(同上)
「將軍章邯、長史司馬欣、都尉董翳追楚兵至河」(『史記』六国年表)
「誅丞相斯、去疾,將軍馮劫」(同上)
「昭王即位,以冄為將軍,衞咸陽」(『史記』穰侯列伝)
「穰侯力能立昭王,為將軍,衞咸陽」(同上)
「今扶蘇與將軍蒙恬將師數十萬以屯邊」(『史記蒙恬列伝)

ちなみに『史記』にも、戦国時代の楚の大将軍の記述は見えます。
「秦大敗我軍,斬甲士八萬,虜我大將軍屈匄、裨將軍逢侯丑等七十餘人」(『史記』楚世家)
また戦国時代の趙の大将軍も出てきます。
「趙王與大將軍廉頗諸大臣謀」(『史記』廉頗藺相如列伝)
「趙乃以李牧為大將軍,擊秦軍於宜安」(同上)
さらに漢代になると、出典省きますが、韓信・劉沢・灌嬰・陳武・竇嬰・衛青など大将軍の官に就いた人々がやはり複数確認できます。
なぜ秦の大将軍だけ確認できないのかという疑問が湧くわけです。

最後に李信がらみで言うと、『新唐書』に問題の記述がありまして。
「生信,字有成,大將軍、隴西侯」(『新唐書』宗室世系表上)
これを信じるなら、李信は大将軍になっているじゃないかという話になります。ですが残念ながら、『新唐書』の世系表の史料的信憑性はきわめて低いとみなされていることを申し添えておきます。