酇侯

 『史記』蕭相国世家漢五年条に「高祖以蕭何功最盛,封為酇侯」とあり、紀元前202年に蕭何が漢の高祖劉邦により酇侯に封じられたらしいことがわかる。同書漢興以来将相名臣年表によると、高祖六年のこととして「封為酇侯」とあり、翌年のこととされている。酇侯国は南陽郡に属し、現在の湖北省襄陽市穀城県固封山の北とされる。
 『漢書』蕭何伝に「孝惠二年,何薨,諡曰文終侯。子祿嗣,薨,無子。高后乃封何夫人同為酇侯,小子延為筑陽侯。孝文元年,罷同,更封延為酇侯」とある。紀元前193年に蕭何が死去し、子の蕭禄が後を嗣いでいる。蕭禄が死去し、子がなかったために呂太后が蕭何の夫人の同を酇侯に封じ、蕭何の末子の蕭延を筑陽侯に封じた。紀元前179年に文帝が同を削封し、あらためて蕭延を酇侯に封じている。また『史記集解』孝文本紀所引如淳が「時呂嬃為林光侯,蕭何夫人亦為酇侯」ともいっているが、これは呂太后が女性たちを侯に封じたことを示している。
 『漢書』百官公卿表下によると、孝景七年(紀元前150年)のこととして、「酇侯蕭勝為奉常」とある。蕭勝と蕭何との関係は不明である。
 『漢書』蕭何伝に「武帝元狩中,復下詔御史,以酇戶二千四百封何曾孫慶為酇侯 ,布告天下,令明知朕報蕭相國德也」とある。武帝の元狩年間(紀元前122年~紀元前117年)、蕭何の曾孫の蕭慶が酇侯に封じられたらしいことがわかる。
 『漢書』百官公卿表下によると、元封四年(紀元前107年)のこととして、「酇侯蕭壽成為太常,坐犧牲不如令論」とみえる。『史記集解』三王世家所引徐広に「蕭何之玄孫酇侯壽成,後為太常也」とあって、これを裏づけ、蕭寿成が蕭何の玄孫であると伝わる。
 『漢書』宣帝紀地節四年条に「故酇侯蕭何曾孫建世為侯」とあり、紀元前66年に蕭何の曾孫の蕭建世が酇侯に封じられているらしいことがわかる。『史記』建元以来侯者年表では「地節三年,天子下詔書曰,朕聞漢之興,相國蕭何功第一,今絕無後,朕甚憐之,其以邑三千戶封蕭何玄孫建世為酇侯」とされており、蕭建世は蕭何の玄孫とされており、封建も前年のこととされ、微妙な相違がみられる。『漢書』蕭何伝が蕭何の玄孫としているので、玄孫が正しいのかもしれない。
 『漢書』百官公卿表下によると、永始四年(紀元前13年)のこととして「酇侯蕭尊為太常,六年薨」とある。この蕭尊と蕭何との関係は不明である。
 『漢書』成帝紀元延元年条に「封蕭相國後喜為酇侯」とあり、紀元前12年に蕭何の後裔の蕭喜が酇侯に封じられている。『漢書』蕭何伝では「成帝時,復封何玄孫之子南䜌長喜為酇侯」とあり、蕭喜は蕭何の玄孫の子ということになる。前段の蕭尊の記事とともに信じるなら、同時に酇侯が二人いたことになり、矛盾は免れない。
 『後漢書』鄧禹伝によると、西暦25年に後漢の光武帝が皇帝に即位すると、鄧禹を酇侯に封じた。また同書臧宮伝では37年に臧宮を酇侯に封じた。酇侯の侯位は別氏に移ったようである。ところが同書韋彪伝によると、82年に蕭何の子孫が捜索され、「封何末孫熊為酇侯」、つまりは蕭何の末裔の蕭熊が酇侯に立てられているのである。それ以後の酇侯国の動向は不明である。

中国王朝の福祉

 『漢書』によると、前漢中期以降「鰥寡孤獨」の人に帛を賜った例が多い。妻を失った夫や夫を失った妻および親のいない子どもや子のいない老人に絹布を賜与しているのである。武帝紀元狩元年条をはじめ、同じく元封五年条、太始三年条、宣帝紀地節三年条、同じく元康元年条、元康二年条、元康三年条、元康四年条、神爵元年条、神爵四年条、五鳳三年条、甘露二年条、甘露三年条、元帝紀初元元年条、同じく初元四年条、初元五年条、永光元年条、永光二年条、建昭四年条、成帝紀建始元年条、同じく鴻嘉元年条、永始四年条、哀帝紀綏和二年条、平帝紀元始四年条などにみえる。また前漢では吏民への爵位の授与や百戸ごとの牛酒の賜与とセットであることが多いようだ。
 『後漢書』によると、後漢前期から中期にかけて「鰥寡孤獨篤𤸇貧不能自存者」の人に粟を賜った例が多い。帛が粟に変わった代わり、老衰病者や自存できない貧窮者に対象が拡大している。光武帝紀下建武六年条、同じく建武二十九年条、建武三十年条、建武三十一年条、明帝紀永平三年条、同じく永平十二年条、永平十七年条、永平十八年条、章帝紀建初三年条、同じく建初四年条、元和元年条、和帝紀永元三年条、同じく永元八年条、永元十二年条、元興元年条、安帝紀元初元年条、同じく建光元年条、延光元年条、順帝紀永建元年条、同じく永建四年条、陽嘉元年条、永和二年条、桓帝紀建和元年条などにみえる。
 『三国志』によると、三国魏では「鰥寡孤獨」の人に穀を賜った例がある。魏書文帝紀黄初三年条、魏書明帝紀太和元年条、同じく太和六年条、景初二年条にみえる。
 『晋書』によると、西晋・東晋で「鰥寡孤獨」や「鰥寡孤老」の人に帛や米などを賜った例がある。武帝紀泰始元年条、恵帝紀元康元年条、同じく永興元年条、明帝紀太寧三年条、成帝紀咸和元年条、同じく咸康元年条、穆帝紀升平五年条、簡文帝紀咸安元年条、孝武帝紀太元五年条、安帝紀義熙元年条などにみえる。東晋成帝以降に米の賜与が現れているのは面白いところだ。
 以下、中国歴代王朝で類例がみられるが略す。日本でも六国史に「鰥寡孤獨」への賜与の例は頻出しているが、これも中国王朝の政策に学んだものであることは言を俟たない。

房陵に流された人々

 唐の中宗が廃位後に房陵(現在の湖北省十堰市房県)に配流されたことは有名だが、秦から前漢にかけて、高貴な罪人を房陵に流す先例があったことはあまり知られていない。
「及奪爵遷蜀四千餘家,家房陵」(『史記』秦始皇本紀始皇九年条)
「廢明為庶人。遷房陵」(『史記』梁孝王世家)
「常山王舜薨。子㪍嗣立,有罪,廢徙房陵」(『漢書』武帝紀元鼎三年条)
「十二月,清河王年有罪,廢遷房陵」(『漢書』武帝紀地節四年条)
「四年夏,廣川王海陽有罪,廢遷房陵」(『漢書』宣帝紀甘露四年条)
「冬,河間王元有罪,廢遷房陵」(『漢書』元帝紀建昭元年条)

妖言令の廃止

 『漢書』高后紀に「元年春正月,詔曰,前日孝惠皇帝言欲除三族辠、妖言令,議未決而崩,今除之」(高后元年(前187年)春正月、詔にいうには、過日孝恵皇帝が三族連座の罪と妖言令を除きたいとおっしゃられ、議論が決定しないうちに崩御されたので、今これを除く)とある。妖言令は世情を騒がす言論に厳罰を科す法令で、高后元年に廃止されたことがわかる。
 ところが同書文帝紀に「五月,詔曰,(中略)今法有誹謗訞言之罪,(中略)此細民之愚,無知抵死,朕甚不取」とあり、文帝二年(前178年)時点では法に誹謗訞言の罪が規定されており、文帝は誹謗訞言の罪で庶民を死なせないように詔を下している。高后元年に廃止された妖言令がいつの間にか復活していた可能性もあるが、ここでの誹謗訞言の罪は王朝批判を処罰する別立てのものかもしれない。
 なお漢の武帝・昭帝のころには、妖言の罪は復活していたようで、前漢初期の言論への寛容は長続きしなかったとみえる。

「唐朝不存在」論を笑いながら

唐王朝はなかった?、中国のネット上の一部で広がる奇妙な主張 - CNN

【千户】宋朝国祚800年,唐朝不存在 - Bilibili

そのものについての亭主の考えは、

唐王朝はなかった?、中国のネット上の一部で広がる奇妙な主張

このトンデモ説を信じるには、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』などの史書はもちろん、唐代に成立した詩や小説、日本や朝鮮などの遣使記録も全否定しなければならないはずだが、そこまで考えてなさそう。

2026/08/20 19:26

にほぼ言い尽くしており、これ以上追撃する気もないわけですが。
 ただこれをネタとして擦って楽しんでいるブコメにも古い偏頗な説に片足ツッコんでいるものがいささかあるようで。

 下についった諸賢の言を引用しておきましょう。


 あと過剰に政治的な裏読みをしている人もいますが、世の中にはアポロ11号は月に行ってないと信じる人もいれば、9・11陰謀論や地球平面説や原爆投下否定論を支持する人もいるので、どこの国にもそういう人は一部にいるものなのですよ。

不穀・寡人

 中国の諸侯の自称(一人称)として不穀・寡人・孤が知られる。『礼記』曲礼下によると、「其在東夷、北狄、西戎、南蠻,雖大曰子。於內,自稱曰不穀。於外,自稱曰王老」といい、また「庶方小侯,入天子之國,曰某人。於外,曰子。自稱曰孤」といい、「諸侯見天子,曰臣某侯某。其與民言,自稱曰寡人」というような使い分けがあったとされる。
 『春秋左氏伝』あたりを見ると、楚子(楚王)が「不穀」を自称している例がやや多い印象があるが、そこまではっきりと使い分けられているのか判然としない。というか、周王が「不穀」を自称している例もあるようにみえる。
 必ずしも民とともに言っているとも思えないが、「寡人」の用例は多く、より後世まで使用されているようである。