2020-01-01から1年間の記事一覧

始皇帝はいった「東南に天子の気がある」と

初唐成立の『南史』宋本紀上に「皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿丹徒間有天子氣者也」(宋の武帝劉裕の父の劉翹の墓が丹徒県の候山にあった。その地は『秦史』のいうところの曲阿と丹徒のあいだで、天子の気のあったところである)という一節がありま…

『人口の中国史』批判その2

読了したので、https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2020/09/18/084005のつづきです。 p.57「西暦一世紀に王朝が西北部に遠征しなくなったことは」 班超の存在が無視されていますね。 p.64「後漢よりも晋朝の版図は縮小し、東北部や西北部、内陸部が抜け…

『人口の中国史』批判

上田信『人口の中国史――先史時代から19世紀まで』(岩波新書)を読んでいるのですが、些末なところでツッコミどころが多くなかなか進みません。とりあえず覚え書きとして吐き出しておきます。 p.12「東に向かった群は、東地中海沿岸を経てヨーロッパに到達す…

河陰の変の犠牲者たち

河陰の変は北魏の末期に晋陽を拠点としていた軍閥の爾朱栄が発動した政変で、武泰元年(西暦528年)四月十三日に発生しました。北魏の霊太后や幼主が黄河に沈められたのを皮切りに公卿以下2000人あまりが殺害されたとされています。以下はその犠牲者のリスト…

清華簡「楚居」をテキトーに訳してみた

季連が初めて隈山(騩山)に降り 、𥤧竆(穴窮)にいたった。前に喬山(驕山)に出て、爰波(爰陂)を宅処とした。汌水をさかのぼり、方山を居処とする盤庚の子と会見した。その娘は妣隹といい、人心を掌握しており、四方に名声が轟いていた。季連は彼女と結…

歴史の有用性とは

歴史語りとは、もちろんそれは話題とする歴史を探求する営為にほかならないのだが、同時に話者の文化と言語の可能性を拡張する営為でもありうる。 ……とか格好よくいうと、すでに過去の先賢のアフォリズムの中にありそうな気もする。過去の言語を、ミームを、…

最近の漢籍電子テキスト事情2020年版

以前にも同様のテーマで書いたことはあるのだが、内容がだいぶ古びてしまったので、稿を新たに書こうと思う。なお使用料が必要とか授権使用とか面倒くさいあたりのところは当方は関知しないのであしからず。 台湾中央研究院漢籍電子文献資料庫 http://hanji.…

『山月記』の袁傪が将軍だった件

中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとな…

内史騰は韓の降将なのか

Wikipedia日本語版「内史騰」記事を読んでいたら、現行版(2020-08-05T15:24:26の版)に「紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。」と書かれていました。 中文版の「內史騰」記事にも、「秦王政十六年…

河東蜀、絳蜀、赤水蜀、あるいは常敗の河東薛氏の経営術

「蜀」というと、現在の四川省成都市一帯に置かれた蜀郡や現在の四川省の簡称としての蜀といった地名、あるいは秦に滅ぼされた古蜀や三国の蜀漢、五代十国の前蜀・後蜀などの国号のいくつかが思い浮かぶ。いずれも成都一帯の土地と紐つけられているには違い…

唐代に現れた漁火

「漁火」は夜間の漁で魚を集めるために焚かれる火のことだが、「漁火」の語が現れるのは唐代のこと。『全唐詩』を引くと、趙冬曦(677-750)の「和尹懋秋夜游𥖹湖二首」に「鶴聲聒前浦,漁火明暗叢」 といい、錢起(722?-780)の「送元評事歸山居」に「水宿…

537年の危機

西暦535年に起こったインドネシアのクラカタウ火山の噴火によって世界的な寒冷化と飢饉が発生したという説があるのですが、https://honz.jp/articles/-/1456https://gigazine.net/news/20181222-worst-year-in-human-history/https://en.wikipedia.org/wi…

長陵に移住した六国の王族たち

『史記』劉敬列伝に劉敬(婁敬)の発言として「臣願陛下徙齊諸田,楚昭、 屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中」と見える。劉敬は戦国時代の六国の王族の後裔や豪傑名家を関中に移住させるよう提言している。匈奴対策と関中強化を名目としているが、…

苻洪の改姓

『晋書』苻洪載記によると、前秦の祖の苻洪の本姓は蒲であり、讖文に「艸付應王」とあり、またその孫の堅の背に「艸付」の字があったことを理由に、永和六年(350年)に苻氏に改姓したとされている。この改姓の理由は怪しい。 『三国志』蜀書後主伝の建興十…

獦生墓誌

王連龍『新見北朝墓志集釈』(中国書籍出版社)pp.105-107にある西魏の獦生墓誌を見ています。 父使持節、安北將軍、都督秦州諸軍事、秦州刺史、略陽郡開國公、諱步肱。使持節、安北大將軍、都督南荊州諸軍事、銀青光祿大夫、南荊州刺史、當州大都督、昌陽子…

秦の丞相

『史記』秦本紀によると、秦の武王二年(紀元前309年)に初めて丞相が置かれ、樗里疾と甘茂が左右の丞相となったとされている。『史記』甘茂列伝によると、甘茂が左丞相とされ、樗里子が右丞相とされたとする。1980年に四川省青川県の郝家坪50号墓から出土し…

中国の高層建築

中国の高層建築の起源を漢代、とくに後漢に措定するのは無理のない仮説だろう。当時の高層建築は現存していないが、出土文物としての「陶楼」が後漢以降に現れるからだ。陶楼は陶製のミニチュア楼閣だが、当時に存在した楼閣の姿を写し取ったものと考えられ…

翁仲

かつて書いた「始皇帝の銅人」を承けて、銅人話の変奏をば。始皇帝の鋳造させた巨大な十二金人(銅人、長狄人)は、後漢末の董卓によりその10体まで破壊され、銅銭の資材にされてしまったことは前述した。 『晋書』五行志上は次のように言っている。「景初…

秦の敬公

以下の話にオチはないし、未知の情報は含まれない。 『史記索隠』秦本紀に「又紀年云簡公九年卒,次敬公立,十二年卒,乃立惠公」とあり、同秦始皇本紀に「王劭按紀年云,簡公後次敬公,敬公立十三年,乃至惠公」とある。 史記三家注のひとつ『史記索隠』が…

ローマ帝国の商人「秦論」は孫権と会見したか

『梁書』諸夷伝や『南史』夷貊伝上にみえる秦論は黄武五年に交阯にやってきて、太守呉邈に送られて孫権と会見したことになっているが、孫呉の黄武五年の交阯太守は士燮もしくは陳時であって、呉邈なんて人物の入る余地はないし、この話自体を疑うべきではな…

王朝軍団カラー

『史記』秦始皇本紀に「衣服旄旌節旗皆上黑」というように、秦の始皇帝の頃の秦軍のカラーは黒であった。彩色兵馬俑を見ると、実際にはもう少しカラフルな装備であったようにも思われるが、軍団装備の制式化が進んでいたことは疑いあるまい。 『史記』高祖本…

宇文氏同州考

『周書』孝閔帝紀に「大統八年,生於同州官舍」とある。宇文泰の三男の孝閔帝は西暦542年に「同州の官舎」で生まれた。同書の武帝紀に「大統九年,生於同州」とある。宇文泰の四男の武帝も543年に「同州」で生まれている。同じく宣帝紀に「武成元年,生於同…

安大簡「楚史」の語る楚の先君

安徽大学蔵戦国竹簡「楚史類」については、ここが分かりやすかったのでメモ。https://kknews.cc/n/jlxenvl.html 安大簡「楚史」が『史記』楚世家などの伝世文献などと大きく違っているのは6点。 1.老童(=巻章)は顓頊の子であって、称の子ではない。老…