河東蜀、絳蜀、赤水蜀、あるいは常敗の河東薛氏の経営術

 「蜀」というと、現在の四川省成都市一帯に置かれた蜀郡や現在の四川省の簡称としての蜀といった地名、あるいは秦に滅ぼされた古蜀や三国の蜀漢五代十国前蜀後蜀などの国号のいくつかが思い浮かぶ。いずれも成都一帯の土地と紐つけられているには違いない。しかし今回取り上げるテーマは成都から遠く離れた山西の地にいた「蜀」の話である。

 まずは『魏書』道武帝紀の
「鄜城屠各董羌、杏城盧水郝奴、河東蜀薛楡、氐帥符興,各率其種内附」*1
を挙げよう。屠各(匈奴)の董羌・盧水胡の郝奴・氐の符興といった人物と並んで、「河東蜀」の薛楡なる人物が北魏の道武帝に帰順したことを示す記事である。「其種」というから河東蜀が種族的に扱われていることは間違いない。河東は当時の河東郡のことであり、現在の山西省運城市一帯に相当する。

 次いで同じく道武帝紀の
「西河胡帥護諾于、丁零帥翟同、蜀帥韓礱,並相率内附」*2
に見える蜀の帥である韓礱も西河胡や丁零の将帥と併記されており、蜀が種族的・民族的に扱われている例といえる。

 河東蜀は北魏の道武帝から太武帝の時代にその活動が見られる。
『魏書』明元帝
「夏四月戊寅,河東蜀民黃思、郭綜等率營部七百餘家内屬」*3
「河東胡蜀五千餘家相率内屬」*4
「河東蜀薛定、薛輔率五千餘家内屬」*5
『魏書』太武帝
「河東蜀薛永宗聚黨盜官馬數千匹,驅三千餘人入汾曲,西通蓋吳,受其位號」*6

 やはり気になるのが、河東蜀の人物として薛楡・薛定・薛輔・薛永宗のように薛氏の人物が頻出することである。『魏書』薛弁伝が「其先自蜀徙於河東之汾陰,因家焉」と述べていることとの関連も見える。とどめは『魏書』盧水胡沮渠蒙遜伝に「真君中,遂與河東蜀薛安都謀逆」とあることで、北魏南朝宋のあいだを縦横往来した河東薛氏の大立者である薛安都が河東蜀とされていることである。「河東蜀」は河東郡汾陰県(現在の山西省運城市万栄県)を本貫とする河東薛氏と同一と言わないまでも、かなり関連の深い集団であると言わざるを得ない。薛弁伝の記述を重視するなら、先祖が蜀から河東郡に移住してきたとされる河東薛氏を含む集団が「河東蜀」と呼称されたのだろう。なお薛永宗は『宋書』薛安都伝に薛安都の宗人(一族)として同名の人物が見える。

 河東蜀の記述は太平真君年間を最後に途絶えているが、これは446年(太平真君7年)に薛安都が北魏から南朝宋に亡命し、薛真度ら河東薛氏の多くも薛安都に従って南遷したことが理由だろう。この南遷も前年に河東蜀の薛永宗が官馬数千匹を盗み、蓋呉の乱と連携したことに端を発している。薛安都や薛真度らは467年(皇興元年)に北魏に復帰するが、以後は再びかれらを「河東蜀」と呼ぶ史料を見ることはできない。

 集団としての「蜀」の記録は北魏の太平真君年間から約80年の断絶を経て史料に現れる。北魏の後期に再び現れた蜀は河東郡や河東薛氏の枠のみでは捉えられなくなっていく。
『魏書』孝明帝紀
「絳蜀陳雙熾聚眾反,自號始建王」*7
『魏書』裴良伝
「時南絳蜀陳雙熾等聚眾反,自號建始王,與大都督長孫稚、宗正珍孫等相持不下」
『魏書』長孫稚伝
「尋而正平郡蜀反,復假稚鎮西將軍、討蜀都督,頻戰有功,除平東將軍,復本爵」
『魏書』河間王若伝
「後討汾晉胡、蜀」
『魏書』裴慶孫伝
「於後賊復鳩集,北連蠡升,南通絳蜀,兇徒轉盛,復以慶孫為別將,從軹關入討」
『魏書』費穆伝
「孝昌中,二絳蜀反,以穆為都督,討平之」
『魏書』李苗伝
「俄兼尚書右丞,為西北道行臺,與大都督宗正珍孫討汾、絳蜀賊,平之」
『魏書』源子恭伝
「加後將軍,平絳蜀反」
「俄而建興蜀復反,相與連勢」
「正平賊帥范明遠與賊帥劉牙奴並面縛請降」
『魏書』尒朱栄伝
「兩絳狂蜀,漸已稽顙」

 526年(孝昌2年)、「絳蜀」の陳双熾が北魏に対して反乱を起こした。反乱の手は北絳郡・南絳郡・正平郡・建興郡など現在の山西省南部に広がった。これらの郡は河東郡の近隣に位置しているが、河東薛氏の対応は屈折したものだったようだ。『北斉書』薛脩義伝に「絳蜀賊陳雙熾等聚汾曲,詔脩義為大都督,與行臺長孫稚共討之」と見えるように、河東薛氏の薛脩義は長孫稚とともに反乱鎮圧に加担した。しかし長孫稚・宗正珍孫らの北魏の官軍は正平郡の蜀の討伐に苦戦してしまう。陳双熾の反乱は李苗・費穆・源子恭らによって鎮圧されたことにされているが、実際には官軍の勝利は限定的で、何らかの条件講和が図られたのではないか。反乱の首領である陳双熾が生存しているほか、正平郡の反乱軍の首領の范明遠や劉牙奴らも降伏を許されている。後段にみるように陳双熾はその後も攻勢に出られるほどの軍勢を保持していたとみられる。

 翌527年(孝昌3年)、蕭宝寅が関中で反乱を起こすと、薛脩義の宗人の薛鳳賢が蕭宝寅に呼応して正平郡で起兵した。薛脩義は薛鳳賢に呼応して河東郡で起兵し、塩池に拠り、蒲坂を包囲した*8。長孫稚は孝明帝に蕭宝寅討伐の命を受けて西征の任にあたり、潼関を落としたものの河東郡への転進を余儀なくされた*9。『魏書』楊侃伝に長孫稚のことばとして「薛脩義已圍河東,薛鳳賢又保安邑,都督宗正珍孫停師虞坂,久不能進」といい、薛脩義と薛鳳賢に挟まれた苦境をこぼしている。『魏書』長孫稚伝によると、このとき塩池の税を廃止するよう孝明帝に上奏している。唐突に見える提議であるが、ほどなく薛脩義は早々に降伏し、薛鳳賢も続いて降って許された。薛脩義がその反乱に際して塩池に拠っていることと考え合わせると、河東薛氏の反乱自体が河東郡解県の塩池(解池)の利権をめぐる条件闘争だったのではないかと思われる。河東薛氏にとって有利な妥結を得たので、あっさり降伏したのではないか。

 その後のことであるが、『魏書』樊子鵠伝に「元顥入洛,薛脩義及降蜀陳雙熾等受顥處分,率眾攻州城。子鵠出與戰,大破之,又破脩義等於土門」という記述がある。北魏の北海王元顥が南朝梁に擁せられて魏帝を称し、洛陽を占拠した。このため北魏の孝荘帝は河内郡に避難を余儀なくされている。529年(永安2年)のことである。このとき薛脩義と陳双熾は元顥につき、晋州の州城を攻撃した。両者は土門で晋州刺史の樊子鵠に敗れてやむなく退いている。薛懐儁墓誌によると、薛真度の子の薛懐儁が北海王元顥の下で長史をつとめており、薛脩義が元顥に加担したのもそうした関係によるものかもしれない。

 陳双熾のその後は不明だが、薛脩義は北斉の初年までしぶとく生き延びている*10。「絳蜀」と河東薛氏の関係は一筋縄ではなかったものの、陳双熾と薛脩義の一連の行動からは、密接な関係にあったとみるべきだろう。河東薛氏は薛脩義の二度の軍事的失敗にも関わらず、大した傷を負ったようにも見えず、隋唐以降も河東郡(蒲州)の名族として繁栄していくことになる。

 いっぽう集団としての「蜀」は衰退し、史料からは消えていくこととなる。その最後を追ってみよう。

『魏書』尒朱天光伝
「時東雍赤水蜀賊斷路」
『周書』李弼伝
「永安元年,爾朱天光辟為別將,從天光西討,破赤水蜀」
『周書』侯莫陳崇伝
「後從岳入關,破赤水蜀」

 528年(永安元年)、爾朱天光が雍州刺史に任命されて関中に向かったが、東雍州の「赤水蜀」の反乱軍が交通を遮断していた。爾朱天光は2000人ほどの少勢であったが、一撃して赤水蜀を粉砕している。このときの爾朱天光の部下には、賀抜岳・侯莫陳崇・李弼・寇洛らが従っていた。
 赤水とはどこか。河州臨洮郡に赤水県がある*11が、赤水蜀の赤水は地理的に明らかにここではない。爾朱天光の洛陽から関中への赴任の途中に遭遇したのであり、「東雍赤水」というから現在の陝西省渭南市の南の赤水のことである。山西の蜀集団の分派がこの地にあり、蕭宝寅の乱や万俟醜奴の乱で関中が混乱する最中に反北魏の旗幟を立てたのだろう。おそらくは小さなセクトの壊滅劇であるが、「蜀」集団の現存最後の記録となってしまった。その後にも「蜀」集団はいたのかもしれないが、記録に残らない以上は語りようもないことである。

*1: 『魏書』道武帝紀天興元年夏四月壬戌の条

*2: 『魏書』道武帝紀天興二年八月辛亥の条

*3: 『魏書』明元帝紀永興三年夏四月戊寅の条

*4: 『魏書』明元帝紀泰常三年春正月丁酉朔の条

*5: 『魏書』明元帝紀泰常八年正月丙辰の条

*6: 『魏書』太武帝紀太平真君六年十有一月庚申の条

*7: 『魏書』孝明帝紀孝昌二年六月己巳の条

*8:北斉書』薛脩義伝

*9: 『魏書』長孫稚伝

*10:北斉書』薛脩義伝

*11: 『魏書』地形志二下