2019-01-01から1年間の記事一覧

吉備真備が書いた墓誌

吉備真備が遣唐使で入唐留学していたときに書いたとかいう李訓墓誌を起こしてみました。ネットに落ちてた画像を参考にしたので、字釈はだいぶ間違っているかもしれません。 大唐故鴻臚寺丞李君墓誌銘并序公諱訓字恒出自隴西為天下著姓曾祖亮随太子洗馬祖知順…

Wikipedia記事が初版より劣化する理由(再掲)

悪意や荒らしが原因とはかぎりません。また質の悪い編集者が原因とも限りません。練達の編集者でも誤りを犯すことはあります。人間だもの。 Wikipedia記事が初版より劣化する理由(1/3)悪意や荒らしが原因とはかぎりません。また質の悪い編集者が原因と…

睡虎地秦墓竹簡「編年記」と『史記』秦本紀

睡虎地秦墓竹簡「編年記」については、以前メモっておいたことがあるわけですが、https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20111212/p1『史記』秦本紀と合わせ読んでみようというだけの企画です。1年ごとに西暦、秦簡「編年記」記事、『史記』秦本紀記事の順…

ブックマークカウンターをつけてみた。

全くもって今さらなんですが、 はてなダイアリーからはてなブログに移行するときに「記事についたコメントや、はてなスター、はてなブックマークを、すべてはてなブログに移行できます」https://help.hatenablog.com/entry/import みたいな説明がされていま…

『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほう…

男色の中国史その1

お題のとおり。その1とつけたが、たぶん続きは書かない。 弥子瑕という人物が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分けて一緒に食べたりしていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたとされて罰せられたという「余桃の罪」の故事が『韓非子』説難篇に見える。 『…

「相邦」銘文をもつ文物

ざっとしたメモ書きなので、誤脱があればごめんなさい。戦国期の趙・中山・秦に相邦の官が存在したことが確実視される根拠はこのへんですね。「十八年相邦平国君鈹」(邢台市家蔵)「八年相邦建信君鈹」(北京故宮博物院蔵)「十七年相邦春平侯鈹」(北京故…

韓王信は代王となったのか問題

近刊の渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』(中公新書)p.23に「韓王信を代王として、国に封建する」と書かれています。古くは西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)pp.187-188に「高祖の六年(前二〇一)、すなわち高祖が天下を統一した翌年のこと、韓王信は…

始皇帝に仕えたベトナム人

秦が六国を併呑し、秦王が皇帝と称した。ときに我が交趾郡慈廉県の人である李翁仲は、身長が二丈三尺あった。若いときに郷邑に赴いて力役を供したことがあったが、長官に笞打たれた。そのため秦に入国して仕え、司隷校尉にのぼった。始皇帝が天下を得ると、…

八達と八愷

『晋書』宗室伝の「(司馬)孚の長兄の朗は字を伯達といい、宣帝は字を仲達といい、孚の弟の馗は字を季達といい、恂は字を顕達といい、進は字を恵達といい、通は字を雅達といい、敏は字を幼達といい、ともに名を知られた。故に時に号して八達とするのはこれ…

魯国の中の魯国

『史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績…

geocities.jpの消滅

ジオシティーズのサービス終了にともない、移転が確認できた中国史サイトは次の2つのみ。中国歴史世界http://tongjian88.com/光武帝と建武二十八星宿http://liuxiu.web.fc2.com/ やはり粛清されたサイトが多く、アーカイブを掘るしかないのである。小説で学…