中国史

始皇帝はいった「東南に天子の気がある」と

初唐成立の『南史』宋本紀上に「皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿丹徒間有天子氣者也」(宋の武帝劉裕の父の劉翹の墓が丹徒県の候山にあった。その地は『秦史』のいうところの曲阿と丹徒のあいだで、天子の気のあったところである)という一節がありま…

『人口の中国史』批判その2

読了したので、https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2020/09/18/084005のつづきです。 p.57「西暦一世紀に王朝が西北部に遠征しなくなったことは」 班超の存在が無視されていますね。 p.64「後漢よりも晋朝の版図は縮小し、東北部や西北部、内陸部が抜け…

『人口の中国史』批判

上田信『人口の中国史――先史時代から19世紀まで』(岩波新書)を読んでいるのですが、些末なところでツッコミどころが多くなかなか進みません。とりあえず覚え書きとして吐き出しておきます。 p.12「東に向かった群は、東地中海沿岸を経てヨーロッパに到達す…

河陰の変の犠牲者たち

河陰の変は北魏の末期に晋陽を拠点としていた軍閥の爾朱栄が発動した政変で、武泰元年(西暦528年)四月十三日に発生しました。北魏の霊太后や幼主が黄河に沈められたのを皮切りに公卿以下2000人あまりが殺害されたとされています。以下はその犠牲者のリスト…

『山月記』の袁傪が将軍だった件

中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとな…

内史騰は韓の降将なのか

Wikipedia日本語版「内史騰」記事を読んでいたら、現行版(2020-08-05T15:24:26の版)に「紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。」と書かれていました。 中文版の「內史騰」記事にも、「秦王政十六年…

河東蜀、絳蜀、赤水蜀、あるいは常敗の河東薛氏の経営術

「蜀」というと、現在の四川省成都市一帯に置かれた蜀郡や現在の四川省の簡称としての蜀といった地名、あるいは秦に滅ぼされた古蜀や三国の蜀漢、五代十国の前蜀・後蜀などの国号のいくつかが思い浮かぶ。いずれも成都一帯の土地と紐つけられているには違い…

唐代に現れた漁火

「漁火」は夜間の漁で魚を集めるために焚かれる火のことだが、「漁火」の語が現れるのは唐代のこと。『全唐詩』を引くと、趙冬曦(677-750)の「和尹懋秋夜游𥖹湖二首」に「鶴聲聒前浦,漁火明暗叢」 といい、錢起(722?-780)の「送元評事歸山居」に「水宿…

537年の危機

西暦535年に起こったインドネシアのクラカタウ火山の噴火によって世界的な寒冷化と飢饉が発生したという説があるのですが、https://honz.jp/articles/-/1456https://gigazine.net/news/20181222-worst-year-in-human-history/https://en.wikipedia.org/wi…

長陵に移住した六国の王族たち

『史記』劉敬列伝に劉敬(婁敬)の発言として「臣願陛下徙齊諸田,楚昭、 屈、景,燕、趙、韓、魏後,及豪桀名家居關中」と見える。劉敬は戦国時代の六国の王族の後裔や豪傑名家を関中に移住させるよう提言している。匈奴対策と関中強化を名目としているが、…

苻洪の改姓

『晋書』苻洪載記によると、前秦の祖の苻洪の本姓は蒲であり、讖文に「艸付應王」とあり、またその孫の堅の背に「艸付」の字があったことを理由に、永和六年(350年)に苻氏に改姓したとされている。この改姓の理由は怪しい。 『三国志』蜀書後主伝の建興十…

獦生墓誌

王連龍『新見北朝墓志集釈』(中国書籍出版社)pp.105-107にある西魏の獦生墓誌を見ています。 父使持節、安北將軍、都督秦州諸軍事、秦州刺史、略陽郡開國公、諱步肱。使持節、安北大將軍、都督南荊州諸軍事、銀青光祿大夫、南荊州刺史、當州大都督、昌陽子…

秦の丞相

『史記』秦本紀によると、秦の武王二年(紀元前309年)に初めて丞相が置かれ、樗里疾と甘茂が左右の丞相となったとされている。『史記』甘茂列伝によると、甘茂が左丞相とされ、樗里子が右丞相とされたとする。1980年に四川省青川県の郝家坪50号墓から出土し…

中国の高層建築

中国の高層建築の起源を漢代、とくに後漢に措定するのは無理のない仮説だろう。当時の高層建築は現存していないが、出土文物としての「陶楼」が後漢以降に現れるからだ。陶楼は陶製のミニチュア楼閣だが、当時に存在した楼閣の姿を写し取ったものと考えられ…

翁仲

かつて書いた「始皇帝の銅人」を承けて、銅人話の変奏をば。始皇帝の鋳造させた巨大な十二金人(銅人、長狄人)は、後漢末の董卓によりその10体まで破壊され、銅銭の資材にされてしまったことは前述した。 『晋書』五行志上は次のように言っている。「景初…

ローマ帝国の商人「秦論」は孫権と会見したか

『梁書』諸夷伝や『南史』夷貊伝上にみえる秦論は黄武五年に交阯にやってきて、太守呉邈に送られて孫権と会見したことになっているが、孫呉の黄武五年の交阯太守は士燮もしくは陳時であって、呉邈なんて人物の入る余地はないし、この話自体を疑うべきではな…

宇文氏同州考

『周書』孝閔帝紀に「大統八年,生於同州官舍」とある。宇文泰の三男の孝閔帝は西暦542年に「同州の官舎」で生まれた。同書の武帝紀に「大統九年,生於同州」とある。宇文泰の四男の武帝も543年に「同州」で生まれている。同じく宣帝紀に「武成元年,生於同…

睡虎地秦墓竹簡「編年記」と『史記』秦本紀

睡虎地秦墓竹簡「編年記」については、以前メモっておいたことがあるわけですが、https://nagaichi.hatenablog.com/entry/20111212/p1『史記』秦本紀と合わせ読んでみようというだけの企画です。1年ごとに西暦、秦簡「編年記」記事、『史記』秦本紀記事の順…

『古本竹書紀年』魏紀をテキトーに読みやすくしてみる。

▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほう…

男色の中国史その1

お題のとおり。その1とつけたが、たぶん続きは書かない。 弥子瑕という人物が衛の霊公の寵愛を受け、桃を分けて一緒に食べたりしていたが、寵愛が衰えると余り物の桃を食わせたとされて罰せられたという「余桃の罪」の故事が『韓非子』説難篇に見える。 『…

「相邦」銘文をもつ文物

ざっとしたメモ書きなので、誤脱があればごめんなさい。戦国期の趙・中山・秦に相邦の官が存在したことが確実視される根拠はこのへんですね。「十八年相邦平国君鈹」(邢台市家蔵)「八年相邦建信君鈹」(北京故宮博物院蔵)「十七年相邦春平侯鈹」(北京故…

韓王信は代王となったのか問題

近刊の渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』(中公新書)p.23に「韓王信を代王として、国に封建する」と書かれています。古くは西嶋定生『秦漢帝国』(講談社学術文庫)pp.187-188に「高祖の六年(前二〇一)、すなわち高祖が天下を統一した翌年のこと、韓王信は…

始皇帝に仕えたベトナム人

秦が六国を併呑し、秦王が皇帝と称した。ときに我が交趾郡慈廉県の人である李翁仲は、身長が二丈三尺あった。若いときに郷邑に赴いて力役を供したことがあったが、長官に笞打たれた。そのため秦に入国して仕え、司隷校尉にのぼった。始皇帝が天下を得ると、…

八達と八愷

『晋書』宗室伝の「(司馬)孚の長兄の朗は字を伯達といい、宣帝は字を仲達といい、孚の弟の馗は字を季達といい、恂は字を顕達といい、進は字を恵達といい、通は字を雅達といい、敏は字を幼達といい、ともに名を知られた。故に時に号して八達とするのはこれ…

魯国の中の魯国

『史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績…

長安の植物園

扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(…

代王嘉はなぜ代王を称したのか

戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の…

連鶏の計

353年、殷浩が北伐したとき、江逌がその下で長史をつとめた。殷浩は洛陽を占領したものの、姚襄の裏切りで危地に陥った。殷浩が江逌に姚襄を撃つよう命じると、江逌は鶏数百羽を集めて長繩で連ね、その足に火を繋いだ。鶏たちは解き放たれると、姚襄の陣営に…

李信は燕の太子丹を討ち取ったのか

ここでは久しぶりに書く気がしますが、別に中国史趣味を忘れてしまったわけではなく、ツィッターあたりでちょくちょく書いていました。ただツィッターでは長文がつらいので、今回はこちらで書きます。 以下は首級がどうとかいう話をしているので、そこが苦手…

唐の最盛期より後漢の領域が広いとみなされている?件

史上最も領土が大きかった帝国トップ20(哲学ニュースnwk) http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5047264.html このときも思ったのですが、唐の最盛期より後漢が広いってことはないはずなんですね。帝国の最大領域一覧(Wikipedia日本語版) https://j…