中国史

骸骨を乞う

漢籍史料に頻出する表現で、「乞骸骨」というのがあり、辞職を願い出るという意味である。大仰に見えるが、老骨を返していただきたいという謙譲表現である。初めて読む現代人は面食らうだろうが、漢籍史料を読むときの重要度は極めて高く、必須知識といって…

秦の妃

唐の徐堅『初学記』巻10儲宮部太子妃第四に「周以天子之正嫡爲王后,秦稱皇帝因稱皇后,以太子之正嫡稱妃,漢因之」(周は天子の正妻を王后とし、秦が皇帝を称すると、皇帝の正妻を皇后と称した。太子の正妻を妃と称し、漢はこれを継承した)とある。宋の李…

周鼎泗水伝説

『春秋左氏伝』宣公三年に「楚子伐陸渾之戎,遂至于雒。觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉」(楚の荘王が陸渾の戎を伐ち、雒にまでいたった。周の疆域で兵を観閲した。周の定王は王孫満を派遣して荘王を労わせた。荘王は周の鼎の大小軽…

中国の僧旻

遠山美都男『新版大化改新』(中公新書)を読んでいたら、p.202に 「僧+某」という僧名は南北朝時代の中国に多く見られたものであった。仏教信仰に傾斜して王朝を滅ぼしたと言われる梁(南朝第三の王朝)の武帝に仕えた僧侶の僧旻は有名である。「国博士」…

白司馬坂の大像

『仏祖統紀』巻39「久視元年四月,詔斂天下僧尼日一錢,作大像於白司馬坂」『資治通鑑』巻207長安四年夏四月条「太后復稅天下僧尼,作大像於白司馬阪,令替官尚書武攸寧檢校,糜費巨億」『旧唐書』張廷珪伝「則天稅天下僧尼出錢,欲於白司馬坂營建大像。廷珪…

「分配」はたぶん和製漢語じゃない

漢語的には動詞的用法しかないことと、「分けて配る」だけではなく、「分けて配置する」「分けて派遣する」の意味も持っていることには注意が必要だが、古い漢籍に用例は多数あり、和製漢語と主張するのは苦しい。もちろん名詞的用法が古典には存在しなかっ…

曹触竜と左師触竜

『荀子』臣道篇に「若曹觸龍之於紂者可謂國賊矣」という一節がある。金谷治訳注『荀子(上)』(岩波文庫)p.292の訳を引くと、「曹触竜が殷の紂王にとりいっ〔て亡国におとしいれ〕たのなどは国賊というべきである」とある。 また『荀子』議兵篇に「微子開…

曹魏南部君墓誌

君諱陵,字子皐,天水冀人也。以漢建安八年春正月七日癸巳生,魏景初三年夏五月十二日丙申遭疾而卒,年卅有七,冬十有二月葬于此土。君之祖父,故上計掾,察茂才,四城令,張掖太守。伯父武陵□城太守。父舉孝廉賢良方正,察茂才,高平令,司空府闢舉茂才,槐…

陳慶之は頑張りすぎたという話

陳慶之の北伐について、以前Twでテキトーに語った(騙った)ログまとめ。 元顥を立てて北伐したときの陳慶之は7000人ほどを率いてたことになってる。実数が正しいかどうかは分からないけど、陳慶之の将軍号の「飈勇将軍」は『隋書』百官志上の序列を見る限り…

どうして肉を食わないのか

『晋書』孝恵帝紀に「及天下荒亂,百姓餓死,帝曰,何不食肉糜」(天下が混乱し、民衆が餓死するにおよんで、恵帝は「どうして肉粥を食わないのか」といった)とあるのはそれなりに知られているが、 『金史』世宗紀に「遼主聞民間乏食,謂何不食乾腊」(遼主…

『建康実録』の倭国記事

巻十「(義熙九年)十二月高句麗倭國及西南夷銅頭太師並獻方物」、413年巻十二「(元嘉二十年十二月)百濟倭國使使貢獻」、443年「(元嘉二十八年)秋七月甲辰進安東將軍倭王綏濟為安東大將軍」、453年巻十三「(大明四年十二月)丁未倭國遣使貢獻」、460年…

内史騰=辛勝説

鶴間和幸『新説始皇帝学』(KANZEN)が出ています。ムック本の体裁なのですが、秦の統一前後の時代について近年の出土史料にもとづく新研究をフォローしているので、かなり読み応えのある内容です。 さて、これのp.172に「中国の歴史家の馬非百は、騰…

北魏と百済の戦争はあったのか

5世紀後半に北魏と百済のあいだに戦争があったとする史書の記述がある。『南斉書』東夷伝「是歳,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木干那率眾襲擊虜軍,大破之」(この年、北魏は騎兵数十万を発して百済を攻め、国境地帯…

武媚娘曲と武則天

某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。某所での関連話題ですが、こちらに投下します。史書をみると、「武媚娘」と武則天を紐つけたのは後付けくさいという話です。— NAGAI…

中国史ポリコレを考える

「ポリティカル・コレクトネス」という言葉がなかった頃から中国の歴史的呼称にはさまざまな批判が加えられてきたもので、とくに中華思想に関わる語に関してはやや慎重に扱われてきたとは言える。 現代では「四夷」すなわち「東夷」・「南蛮」・「西戎」・「…

韓王安の捕縛と韓の滅亡

荊州胡家草場漢簡「歳記」に「十六年,始為麗邑,作麗山。初書年。破韓得其王,王入吳房」(1538号簡)「十七年十二月,太后死。五月,韓王来。韓入地于秦」(1535号簡)といった記述があり、紀元前231年(始皇16年)に秦が韓を破り、その王を捕らえて呉房(…

斬白蛇剣

秦の始皇帝は阿房宮や酈山陵(始皇帝陵)の造営のために隠宮徒刑の者七十万人あまりを動員した(『史記』秦始皇本紀始皇三十五年条)。ちなみに隠宮とは従来は宦官のこととされていたが、隠官の誤写で刑期を終えた人を指すという新説が生まれている。https:/…

孝悌力田に爵位を賜う

ぼく梁の武帝蕭衍。孝悌力田に爵一級を賜うのが大好き。『梁書』武帝紀中天監十三年二月丁亥条「孝悌力田賜爵一級」『梁書』武帝紀中天監十八年春正月辛卯条「孝悌力田賜爵一級」『梁書』武帝紀下普通元年春正月乙亥朔条「孝悌力田爵一級」『梁書』武帝紀下…

董卓による破壊的インフレ

董卓が五銖銭を改鋳して小銭を作り、これが粗悪な通貨だったことから、高インフレを招いたことは数多く言及されている。だが董卓が鋳潰したのは五銖銭だけではない。 『三国志』魏書董二袁劉伝では「悉椎破銅人、鐘虡,及壞五銖錢。更鑄為小錢」といい、銅人…

樊噲冠

『後漢書』輿服志下に「樊噲冠」なるものの解説がある。 樊噲冠,漢將樊噲造次所冠,以入項羽軍。廣九寸,高七寸,前後出各四寸,制似冕。司馬殿門大難衞士服之。或曰,樊噲常持鐵楯,聞項羽有意殺漢王,噲裂裳以裹楯,冠之入軍門,立漢王旁,視項羽。 漢の…

中国の記録にみえる銅鼓

銅鼓は日本では東京や九州の国立博物館などで実物を見ることができるが、中国南部から東南アジアにかけて存在していた楽器である。 『後漢書』馬援伝に「援好騎,善別名馬,於交阯得駱越銅鼓,乃鑄為馬式,還上之」とあり、ヴェトナムの徴側・徴弐の乱を鎮圧…

唐の酅国公

『旧唐書』高祖紀武徳元年六月癸未条に「封隋帝為酅國公」とあり、武徳二年五月己卯条に「酅國公薨,追崇為隋帝,諡曰恭」とある。西暦618年の唐の建国を受けて、隋の恭帝楊侑が唐の酅国公に封ぜられ、翌年に亡くなっていることを示している。 『新唐書』宰…

甘藷

「甘藷」といえば、さつまいものことで、新大陸原産の農作物のひとつである。中国では16世紀末に栽培がはじまったらしい。 ところが賈思勰『斉民要術』巻第十に「南方草物狀曰甘藷二月種至十月乃成卵大如鵝卵小者如鴨卵掘食蒸食其味甘甜經久得風乃淡泊異物…

はじめての中国史SF選集

このところ劉慈欣『三体』がベストセラーになり、『折りたたみ北京』『月の光』のようなアンソロジーが刊行されて、中国SFが近年の日本でも紹介されはじめております。そういう時代に出ましたこれ。『移動迷宮―中国史SF短篇集』(中央公論新社)中国史SF…

琅邪王氏も陳郡謝氏も侯景の乱で滅んではいない

なお、南朝の貴族制は梁の武帝の末年に起こった侯景の乱によって大打撃を受け、南朝貴族の最高の地位を占めていた王氏や謝氏など、永嘉の乱後に江南に渡った北来貴族の多くが滅んだとされる。窪添慶文『北魏史』(東方書店)p.262 ダウトです。琅邪王氏も陳…

火井

魏晋以前には蜀郡臨邛県に火井があり、その井の火で塩が煮られていたらしい。この火井については、油井であるとか、天然ガス田であるとか、現代的な解釈はいろいろある。唐代以降、その伝承をもとに邛州火井県が置かれている。 『博物志』巻二に「臨邛有火井…

蒙恬造筆のこと

晋の崔豹『古今注』雑注第七に「世稱,蒙恬造筆,何也,答曰,蒙恬始造,即秦筆耳,以枯木爲管,鹿毛爲拄,羊毫爲被,所謂蒼毫,非兎毫竹管也」といって、秦の蒙恬が初めて筆を造ったという記述が見える。『史記』孔子世家に「至於為春秋,筆則筆,削則削」…

「西陽蛮」

六朝時代の「西陽蛮」は西陽郡の「蛮」、つまりは当時の少数民族であったといっていいだろう。西陽郡は現在の湖北省の東部、黄岡市あたりに置かれた郡である。『宋書』夷蛮伝によると廩君の後裔とされ、西陽郡に巴水・蘄水・希水・赤亭水・西帰水があったた…

梁の武帝の愉快な囲碁仲間たち

梁の武帝蕭衍は囲碁が大好きで、夜から朝方までやめなかったと言われています。「高祖性好棊,每從夜達旦不輟」(『梁書』陳慶之伝) そのワザマエはプロ級でした。「六藝備閑,棊登逸品」(『南史』梁本紀中) そんな武帝の囲碁仲間はどんな人物たちだった…

「竟陵八友」を疑う

『梁書』武帝紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,高祖與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並遊焉,號曰八友」とあり、『南史』梁本紀上に「竟陵王子良開西邸,招文學,帝與沈約、謝朓、王融、蕭琛、范雲、任昉、陸倕等並游焉,號曰八友」とある。…