洪武帝が殺していなかった人物

 趙翼『廿二史箚記』巻三十二の「明初文字之禍」条は、黄溥『閒中今古録』を引いて、

杭州教授徐一夔賀表,有「光天之下,天生聖人,為世作則」等語,帝覽之大怒曰「生者僧也,以我嘗為僧也;光則薙髮也;則字音近賊也。」遂斬之。

杭州教授徐一夔の上表に「光天の下、天は聖人を生み、世のために則を作った」などの語があったことから、洪武帝がこれを見て激怒して「生とは僧である。わたしがかつて僧であったことを示しているのだ。光とは髪を剃っていることだ。則の字は音が賊に近い」といって、ついに徐一夔を斬った。

とあるのだが、これは信用できないようだ。徐一夔の書いた「故文林郎湖広房県知県斉公墓誌銘」があり、この銘文によると、誌主の斉公は洪武戊寅(1398年)に死去しており、その翌年(1399年、建文元年)に葬られている。洪武帝に殺されていたなら、徐一夔にはこの文章を書くことができない。また『杭州府志』古今守令表によると、徐一夔は洪武六年から建文二年まで杭州教授をつとめているという。

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