白司馬坂の大像

『仏祖統紀』巻39「久視元年四月,詔斂天下僧尼日一錢,作大像於白司馬坂」
資治通鑑』巻207長安四年夏四月条「太后復稅天下僧尼,作大像於白司馬阪,令替官尚書武攸寧檢校,糜費巨億」
旧唐書』張廷珪伝「則天稅天下僧尼出錢,欲於白司馬坂營建大像。廷珪上疏諫」
旧唐書』李嶠伝「長安末,則天將建大像於白司馬坂,嶠上疏諫之」
旧唐書』蘇珦伝「時有詔白司馬坂營大像,糜費巨億,珦以妨農,上疏切諫,則天納焉」
 久視元年(700年)なのか長安四年(704年)なのか知れないが、武則天が僧尼から税金を取って白司馬坂に大像を作ろうとしたらしい。通鑑によれば、武攸寧を検校として巨億の費用をかけて建立される計画であった。張廷珪や李嶠や蘇珦らが諫めて中止されたものと思われる。
 白司馬坂がどこかといえば、『旧唐書』侯思止伝に「洛陽有坂號白司馬坂」といい、『資治通鑑』巻182胡注は「白司馬坂在邙山北,邙山在洛城北」といっている。洛陽の北の邙山の北にあったらしい。
 『新唐書』張廷珪伝によると、「神龍初,詔白司馬坂復營佛祠,廷珪方奉詔抵河北,道出其所,見營築勞亟,懷不能已,上書切爭」という。神龍初年、中宗により白司馬坂に再び仏祠を造営する命令が出され、張廷珪が上書して諫めたとされている。続きに「帝不省」というから、今度は造営中止されなかったと思われる。『白孔六帖』巻89に「白司馬坂復營佛祠,營寺塔廣殿長廊」とあって、寺塔・広殿・長廊の営建のことは見えるが、大像の記述が見えないので、大像は結局作られなかったのだろう。