曹操の墓を専門家が解説したよ(その三)

その二のつづきです。
郝本性氏の発表です。曹操の墓からは「魏武王」の石牌をはじめ60数点の石碑が出土しています。そこにみえる副葬品から曹操の実像に迫っていく内容です。

曹操高陵出土文物の研究―安陽高陵出土石牌刻銘にみる曹操のすがた―

   郝本性(河南省文物考古研究所)
 曹操は、中国の歴史上で著名な政治家・軍事家・文学家である。唐代以前は栄誉を受けていたが、宋代以後は誹謗を受けて、奸悪でずるい小人の典型人物に貶められ、悪しざまに言われるようになった。これは、曹操の複雑で豊富な人生経歴や、多様な性格・流儀、そして政治・軍事・文学上の功績から、人々の高い関心を集め絶えず評論されたからであろう。ただし『三国演義』での悪人ぶりが知れ渡っており、史書『三国志』の著者陳寿の記した“非常之人、超世人傑”という評価は継承されなかった。真実の曹操の姿は、考古発掘で得た実物資料だけが語ることのできるものである。たとえば曹操は一貫して質実な生活を送り、薄葬を主張した。かれは文を重んじ武を習い、多才多芸であった。かれは頭痛持ちで養生を重視した。かれは魏国の王に在位して、天子の儀衛(儀仗衛兵)を享受していた。などなどは実際のところどうなのか。この墓で出土した石牌銘刻中からいくつかの情報が見えてくる。後代の史伝における誇張や偽りがなく、北魏以後の墓誌のような阿諛奉承や歌功頌徳がないため、その情報は信頼がおけるのである。このため石牌刻辞はこの墓の被葬者が曹操であることを示す確実な証拠のひとつであるだけでなく、さらに曹操が生きた時代の社会風俗とその性格・趣向を理解する有力な物証なのである。
 河南省安陽市西高穴村二号大墓は、国家文物局の承認を経て、2008年12月6日に、河南省文物考古研究所が正式に緊急の考古発掘を始めた。2009年11月11日に、魏武王常所用挌虎大戟石牌が発見され、その後の調査により二種類の石牌が続々と発見された。一つは圭形石牌で、一つは六角形の梯形石牌である。石牌のいくつかは欠損している。また盗掘者により持ち去られたものもあるが、幸い大部分が残っていた。
 圭形石牌は少なくとも8点あり、釈文は以下である。
1、魏武王常所用挌虎大戟
2、□□□□所用挌虎大戟
3、魏武王常所用挌虎大刀
4、□□□常所用挌虎短矛
5、□□□常所用挌虎短矛
6、□□□常所用長犀盾
7、□□□常所用
□椎二枚
8、魏□
獵(猎)□
 上の7と8は接合するかどうか今のところ分からない。
 もう一つ石牌があるが、字跡は明瞭でない。前述の石牌の兵器は対になっているので、“魏武王常所用挌虎大刀”かもしれない。
 出土の石牌はみな成熟した隷書で、俗にいう“八分体”である。書法の角度からみると、慰項石の背面はやや広く、隷書の筆の勢いは流麗で滑らかである。圭形石牌は縦の長さに限りのある石面であるため、字跡は明らかに堅苦しい。その上に魏武王の諡号を書く必要があったため、書かれた字体は整っており、熹平石経の字体に似ている。書がれた字体は熹平石経と魏正始石経の中間に位置する。“所”字、“用”字、“大”字はひとしく同様である。ただ“虎”字の一番上の横一画は、漢の衡方碑と北魏の元珍墓誌の字体と共通である。これらの虎字の下部はひとしく“巾”字の形に作られ、石経や魏の上尊号碑、魏の王基残碑と共通する。
 しかし梯形“衣物疏”牌には、埋葬の前に急いで刻したせいか、多くが粗雑である。名称と数量は書き出しているものの、中には字体の整っていないものもある。同一の字でも、異なる書法があり、個別の字に草書の趣もあるが、全体的に見て、これらの石牌の字は、いずれも扁方体の隷書であり、まさに後漢末年の風格である。
 まず“魏武王”三字は曹操諡号であり、曹操が死んだ後の呼称である。
 曹操、字は孟徳、小名を阿瞞という。曹操は漢の建安元年(196年)に漢の皇帝を迎えて、許昌に都し、自ら司空に就任し、建安九年(204年)になって河北を奪取し、冀州牧を兼ねた。建安十三年(208年)に丞相に昇った。建安十八年(213年)、漢王朝の名義で冀州の魏郡など十郡を領有し、封じられて魏公となる。建安二十一年(216年)に再び爵を進めて魏王となった。魏公・魏王の王都は鄴城であり、鄴城に魏の社稷・宗廟を建立した。また官吏を設置し、形式上においては、すでに完全に皇帝と同様であり、実権としては漢の献帝よりも実際高く、権力を一手に握った。
 魏武王は曹操死後の称号であり、中国古代の諡法に由来する。周代以来、帝王将相が死んだ後は、朝廷はその生前の事蹟に基づき、褒貶善悪の称号を与えた。
 後漢以後は、太常により諡を議論された。曹操の死後は賈逵らにより葬儀が取り仕切られたので、そのままかれらが諡を議論した。曹操は戎馬の中にあること三十年、北方を統一し、文武に通じていて、“武”の諡は実情に合致したものであった。当時は漢の献帝がおり、かれにより諡が賜わられたであろうが、魏王国が漢王朝下の最大王国で、曹操が生前魏王を称していた以上、その死後は魏武王と称することができるのみであり、諡号の前に国号を加えるのは、礼制に符合するものである。その後まもなく曹丕が漢に代わり帝を称した後、追諡して“武皇帝”とし、史上に魏武帝と称されるのである。曹操の死後は魏武王と称することができないとみる研究者もいるが、歴史的根拠に欠けている。当時、曹操のみが生前に魏王となり、死後“魏武王”と諡され、数ヵ月後に再び追諡して魏国(漢に代わった後の魏国)の武皇帝となった。このような一連の称号がならび、条件に合うのは曹操のみである。中国史上にはほかに“魏武王”を称したものがいるが、このような称号の変化の歴史を具えていない。
 『三国志』魏書武帝紀によれぱ、漢の献帝は“金虎符第一至第五、竹使符第一至十”を曹操に与え、名実ともに曹操が軍権を握ったことを表明し、魏国は独立した軍事権を擁することとなる。また建安二十二年(217年)夏四月、漢の献帝曹操に天子の旌旗を設置することを命じ、出入りに警護を付けた。まもなくまた冕に十二旒(天子の冠)を付け、金根車に乗り、六馬に駕し、五時副車(天子の副車)を設けるよう曹操に命じた。曹操はこの時すでに天子の儀衛を用いていたのである。古代の天子は出行・居住に鹵簿を用いた。秦漢以降に、はじめて鹵簿の名がみえる。『封氏聞見記』に“甲楯有先後部伍之次、皆著之簿籍、天子出入時按次導従、故謂之鹵簿”とあり、『漢書陳勝項籍伝には、“流血漂鹵”、顔師古注に“鹵は、盾なり”とある。先にあげた“長犀盾”石牌は、鹵簿を先導した兵器を指す。また出土した梯形石牌の銘文に“白縑画鹵簿游観食厨各一具“とあり、游観は遊覧に出るという意味である。鹵簿は儀衛の出行に用いるものである。鹵簿は非常に格式のあるもので、等級身分をあらわずのに必要な儀仗であった。これを全て埋葬するのは不可能なので、白絹に描いたものを用いて、曹操臨終の遺令における薄葬の意図を遵守したものである。同時にまた盾・戟・刀・矛・錐などの必要な一部の兵器の組み合わせは、その天子としての身分地位を加えて明らかにしている。
 これらの兵器にはひとつの特徴があり、みな曹操の“常所用”(常に用いるところ)で、愛用の兵器であることである。曹操は著名な軍事家であり、かれは自ら軍事を率いる一方で、もう一方では多くの兵法書を撰述した。惜しむらくはそれらの著作はすでにほとんどが秩伝しており、最も完全に残っているのがかれの『孫子兵法注』である。かれは中国古代において『孫子兵法』を系統的に整理し注を加えた第一人者である。『孫子兵法』が保存され今に伝わるのは、曹操の功績が最も大きい。曹操は文武兼備で、自ら五振りの鋼刀を作らせ、三振りを三人の息子に与え、自らは二振りを用いた。また曹操は年少のとき、気宇壮大で人を驚かせた。『三国志』魏書武帝紀注引の孫盛『異同雑語』によると、かつて太監張譲の寝室に押し入り、殺害しようとした。発覚して、衛士がかれを包囲し捕えようとしたが、庭内で手戟で対抗し、壁を越えて逃げた。手戟を佩戴することは、魏晋時代には地位の高い人の用いるものであり、南北朝以後は、あまり用いなくなる。当時にあっては、董卓孫権呂布甘寧らは、みな手戟の扱いに長じていた。
 曹操は魏王になった後も、なお戎馬の中にあり、かれの遺嘱の中では、天下がいまだ安定せず、自分の死後も勝手に駐屯地をはなれないよう繰り返し強調している。かれが魏王に封ぜられた後も、内部に政変を起こす反逆者がおり、そのため死後の帰葬の途中も護衛を強化し、そして埋葬の時に平時に常用した兵器を副葬したのであろう。かれの死去に際し、人々は葬儀を取り仕切る役目に賈逵を推薦した。ある人が密葬を主張したが、賈逵は公開で葬送することを主張し、人々に遺容をながめさせた。当時の必然として天子の儀衛を用いて傍らに護衛させた。このため私は、曹操墓出土の“常所用”石牌が兵器を主としており、天子の儀衛における“警曄の侍衛、常儀のごとし”にあたるとする武家璧の意見に賛同する。(武家璧「曹操墓出土“常所用”兵器考」『中原文物』2010年第4期P15)。これは曹操墓出土の兵器石牌上に“常所用”と刻銘している兵器であることとは矛盾しない。
 圭形石牌には“挌虎”の二字が刻銘され、挌は格に通ずる。挌は、捕える、あるいは戦うの意味である。挌虎とは“見虎格得”、“手格猛獣”といい、武勇の優れた人の形容である。曹操の子の曹彰は非常に勇猛で、素手で猛獣を捕えた。格虎は当時よく見られた言葉で、「格虎賦」や「諫格虎賦」がある。十六国時代の後趙の石虎は、格虎車四十鞆を建造した。見るように“挌虎”は武勇の形容詞である。実際に墓の中で出土した鉄兵器も含めると、鉄甲・鉄剣・鉄杵(椎)・鉄弩・鉄矛・鉄戟・鉄刀・鉄鏃などがあり、戦場で一生を過ごした曹操の愛用した兵器であることを示す。かれは「内誡令」(『太平御覧』245)で、“百錬利器以辟不祥、摂服奸宄者也”と言っており、これらの兵器は不逞分子の興るのを防止し、また不祥事の発生を防止するものであった。これらの鋼鉄兵器を副葬することは、被葬者が武器を好むことを反映すると同時に、それを副葬することで、不祥を排除することが期された。
 銅の鎖で兵器に結び付けられていた石牌は、みな圭形に成形されており、これは礼制の規定に基づいている。玉圭は重要な礼器である。『考工記』玉人に、“鎮圭尺有二寸、天子守之、命圭九寸、謂之桓圭、公守之”と記載される。後漢の古尺一尺は現在の約23.3cmで、墓中出土の石圭一点は、ちょうど長さ28.9cm、幅7.4cmで、天子のもつ圭の長さに合致する。なお、六角形石牌に“珪(圭)一”の刻銘をもつものがある。以上のように、文献記載の礼制から、出土の石圭と石牌刻銘を比較し、総合的にみると、この墓の等級身分は天子の規格に合うことを示す。曹操は魏王になり、後に天子の儀衛を享受する。曹操は生前鄴城の宗廟において玉圭・玉璧を用いて天地・祖先の神霊を祭っていたのであろう。
 また石璧も出土しており、欠損しているが、“璧四”銘の石牌から四枚の石璧があったと考えられる。張家山二四七号漢墓出土の木牌上に白璧四具があり、漢墓には四枚の璧を副葬するのが常であった。圭と璧のセットは天地を祀る礼器である。
 次いで石枕についてみていく。背面には成熟した隷書で“魏武王常所用慰項石”九字が刻出される。ここに見える“所”は受け身の助動詞であり、“被”(〜られる)の意味で、つまり“常被用”(常に用いられた)である。慰は“撫而安之”の意味。曹操はもと頭痛持ちであった。『三国志』方伎伝に、“太祖苦頭風、毎発、心乱目眩、[華]佗針鬲、随手而差”と記載される。実際に曹操はよく頭痛の発作が起こったので、名医の華佗の針灸を請うほか、二つの方法を用いた。一つには、陳琳の文章を読むことで、面白さに痛みを忘れた。もう一つにはこの慰項石枕を用いることである。枕形は粗いつくりであるが、枕の中部がへこんで弧形を呈し、項を安定させ、青石の冷たさが疼痛を軽減した。慰は熨に通じて、温湿布の効果があるとする説もあるが、著名な漢方医の張磊先生の説では、頭痛に対して温めるのはよくないという。
 戦国時代から漢代にかけての枕は、発掘された品がすでに百点近くある。竹木類では長条形のものがある。秦の枕は少なく、漢の枕はやや多い。材質は竹・木・布帛・金属・玉石がある。そのうち、河北省定県の北荘漢墓出土の枕の中部はへこみ、円弧形を呈している。この種の枕は、梯形石牌に記される“渠枕”である。渠は溝渠すなわち人工の水道であり、『広雅』釈水に“渠、坑也”とある。枕の中部がへこんで渠形になっていることから、この石枕を渠枕と称するのである。ただ、漢代の諸侯王は玉枕を埋葬することが多く、徐州獅子山楚王陵では虎頭玉枕が出土している。曹操は平素倹約家であり、石枕を用いていた。なおかつ日常に用いられるものであった。死後は副葬品を用いるわけで、生前使用したものを副葬しようとするところに、その人の正体が現れる。
 他に梯形石牌の刻銘に、“黄蜜金廿餅、白蜜銀廿餅、億巳銭五万”とある。後漢末年、経済は破綻し、貨幣は暴落した。後漢の五銖銭は軽く薄くなり、董卓の造った貨幣はさらに歓迎を受けなかった。黄金と白銀は称量貨幣とみなされて、必然的に市場に流通した。その形状は円餅状である。ただしここで埋葬されたものは蜜蝋で製作された冥銭であった。蜜蝋で冥器を作ることがあり、ある墓では蜜印が副葬されている。この種の冥銭については億巳銭五万と表現されているが、実際にはこの墓の中から後漢の五銖銭が少量発見されたのみで、五万の貨幣は見つかっていない。この五万銭は冥銭であり、実物ではない。曹操は“金玉珍宝”を埋葬しないよう命令しており、そのため以上の諸銭は冥銭ないし象徴的な貨幣とみなすことができる。
 いわゆる“億銭”であるが、億は意(憶)と通じており、『漢書』貨殖伝に“意則屢中”とあり、顔師古注に“意は読んで億となす“とある。実際は意は推量することである。意銭は攤銭ともいい、後漢後期に流行した遊戯であり、外戚の梁冀は、若い時によくこの遊戯をしていた。後に賭博遊戯に変わっていく。この墓の意銭は四を一攤とするもののようである。銭を別々にして、残りの銭の数をいくつかにする。参加したものがまず数目を予想し、当たれば勝ちである。牌銘は曹操と妻妾がよく一種の賭博遊戯をしていたことを示している。
 また梯形石牌の刻銘に“香囊三十双”とある。香囊に盛られた香料は舶来の安息香か、香気のある佩蘭かは確定できない。曹操は香を焚くことを好まず、“其以香蔵衣著身亦不得“(『御覧』981)、また命を下して“房室不潔、听得焼楓膠及蕙草”(『御覧』982)とある。しかし臨終の際には、妻妾らのその後の生計を案じ、自分の香料を分け与えた。建安二十五年(220年)臨終の際の遺嘱の中に、“余香可分与諸夫人、不命祭。諸舎中無所為、可学作組履売也”とし、残った香料を各夫人に分け与えている。手職のないものには、靴を作ることを学ばせて売らせた。有名な“分香売履”の故事であり、曹操の内心を吐露したものである。この種の話は創作されたものと疑われているが、ではなぜかれの死後の随葬品に香囊三十双があるのか。曹操が薫香を禁止したのは偽りであるのか?あるいは送葬者がかれの遺嘱と薄葬の要求に反したのであろうか?
 ここで、梯形石牌に“斗帳”とあるものが注目される。「孔雀東南飛」の長詩の中に“紅羅復斗帳、四角垂香囊”の詩句が見え、斗帳の四隅に香囊があったことが分かる。これはよく見られた風習で、平民も同じくこのようなことをしていた。曹操は洛陽で病没し、遺体を帰して埋葬されるまで時間があり、遺体は腐臭をもった。送葬者が香囊を埋葬するのは必要なことであり、また曹操は香を妻妾に分け与えていたので、妻妾や子女は香料を献上してかれを祀ったことであろう。天子の待遇をされた魏王の斗帳に香囊を置くのは当然のことであり、怪しむに足りない。この石銘“香嚢三十双”は、曹操の言行不一致を証明できない。かえって曹操の分香故事──英雄が女性を愛し、かれの心情を吐露した佳話に新たな彩りを添えるものとなっている。
 以上の分析は、いささか推論に属するものもあるが、方々の指正をお願いしたい。





西高穴村2号墓の「魏武王」で条件に合うのは曹操しかいないこと、副葬品は日用品が多く、なおかつ礼制は天子の格式であることを強調されてました。日用の持ち物から見える人物像というのも興味深いものがあります。
蛇足ですが、ブログ主もこのあたり曹操墓出土の石碑刻字の字釈について中途半端にまとめてます。

さて、その四につづきます。次回は張志清氏の発表を紹介します。