曹操の墓を専門家が解説したよ(その四)

その三のつづきです。
今回は張志清氏の発表を紹介します。漢代の諸侯王の墓制の変遷を通して、曹操の墓の位置づけを論じます。なにやら専門的にすぎる内容ですが、「崖洞墓+黄腸題湊(黄腸木→黄腸石)→磚券墓(外側に回廊→前中後三室構造)」という流れを押さえておけば、なんだそれだけのことをたらたら言ってるのかという話でもあります。

漢代陵墓考古と曹操高陵

   張志清(河南省文物考古研究所)

 漢代考古学において、一般の中型・小型の墓の研究資料は非常に豊富だが、漢代の帝王陵墓の研究は考古資料が制限されており、一般の墓ほど豊富とはいえない。近年になって多くの諸侯王墓が発掘され、現在確認できる漢代の諸侯王陵墓は当時の十数カ国で計百基ほどある。皇帝陵が未発掘なため、これらの諸侯王墓が漢代陵墓の研究に豊富な資料を提供している。

一、前漢諸侯王墓
 前漢の諸侯王墓には、山を穿つ崖洞墓と“黄腸題湊”という竪穴墓の二大類型があり、前漢後期には黄腸木を石材に代えた黄腸石墓が現れる。前漢諸侯王の大型崖洞墓は主に河南省東部・江蘇省北部・山東省・河北省にあった梁・楚・魯・中山などの諸国に見られる。そのうちで数量の多いのは、前漢前期の梁国と楚国の墓である。
 河南省永城市の梁孝王王后陵墓:大型の崖洞墓。祭祀用の寝園建築が接する。王と王后を合葬し、南北に二基の大型陵墓が同一陵園に並列する。梁孝王王后墓は、現在のところ最大規模で、最も構造の複雑な漢代の大型崖洞墓である。梁国の宮殿の前堂・後室の建築構成を模倣する。東西二つの墓道、三つの甬道、墓室三十以上、前・後主室から成る。墓の全長は210m、墓の面積は1600平方m、容積は6500立方m。墓道・甬道・側室の墓門は総量1トン前後の塞石で封じている。塞石は全部で6000個にも及び、大部分のものに刻字がある。各側室門上の塞石には“東宮東南旁”、“西宮西北旁”、“西宮西南旁”などとあり、当時は前室・後室を“東宮”・“西宮”と称し、その側室を“旁”と称したことが分かる。陪葬坑から“梁後園”銅印・金メッキ車馬器・銅兵器・玉器ほか1800点もの各種文物が出土した。梁孝王墓との位置関係、出土文字資料、遺物の年代および文献資料と照らし合わせると、被葬者は梁孝王の王后李后であり、埋葬年代は前124-123年と考えられる。
 柿園漢墓:梁孝王墓の東南500mに位置し、墓道・甬道・主室・過道・側室で構成される。墓道の全長は60m、主室のみで、前室・後室・回廊はない。主室頂部に青龍・白虎・朱雀・雲紋の大型彩色壁画がある。半両銭・楡莢銭225万枚、車24両・陶桶約50点ほか兵器・生活用品などが出土。塞石の刻字などから墓主は第二代梁王劉買とされる。劉買は武帝の建元五年(前136年)に死去した。諡は“共王”。
 黄土山二号墓:梁孝王墓の西北1300mの黄土山北側に位置する。1999年に盗掘を受けるが、青銅器80数点などが回収されている。墓道・甬道・前室・左右耳室・後室からなる。墓の総面積は100平方mあまり。前室東西の耳室底部から馬骨、金銀メッキ車馬器が発見され、車馬室であったとみられる。後室の四壁には朱砂があり、漆塗りの棺槨が置かれ、周囲から玉衣片などが出土している。後室からは50数点の青銅製の生活用品が出土。被葬者は前漢中期以後の梁王ないし王后である。ただし、墓の規模は梁孝王王后墓よりはるかに小さく、武帝以後の梁国の衰退が王陵の規模の変化に影響している。
 僖山一・二号墓:梁孝王墓の東北1.5kmの僖山山頂に位置する。いずれも墓道をもつ竪穴岩坑石室墓で、穿った岩坑に、条石で墓室を構築している。墓室の東西は7mで、南北は4m。前漢後期の黄腸石墓である。一号墓墓室では、玉衣片1000片以上・玉壁70点以上のほか、玉器が多数出土している。一号墓は大始元年(前45)から永光元年(前39年)にかけて在位した梁夷王劉遂の墓と考えられる。埋葬年代は永光元年またはやや後とみられる。二号墓はその王后墓であろう。
 前201年、漢の高祖劉邦は弟の劉交を楚王に封じ、彭城(現在の江蘇省徐州市)に都を置かせた。徐州市郊外の山上には前漢の楚国十二代の楚王が葬られており、現在8基の楚王・王后の墓が発掘されている。みな大型の崖洞墓である。
 獅子山漢墓:徐州市東郊の獅子山に位置し、墓の全長は117m、面積は851平方m、外墓道・内墓道・耳室・甬道・側室・棺室・陪葬墓などからなる。墓主に着せた金縷玉衣は4000片ものホータン玉で作成され、棺は玉棺、その中は木製漆棺で表面に各種形状の玉片2095片をはめ込む。墓の中からは大量の玉器・銅食器・銅兵器のほか、200点もの銅官印・封泥80点が出土しており、楚王国の宮制などの研究にとって重要である。墓の西500mで兵馬俑坑が発見されている。被葬者の有力侯補は、第三代楚王劉戊(前174〜前154年)。埋葬年代は前154年、もしくはやや後である。
 北洞山漢墓:徐州市の北10kmの京杭大運河北岸に位置し、墓道・主体建築・附属建築からなる。墓の全長は66.3m。主体墓室は崖洞で木材・瓦などは用いられない。附属墓室はさらに石板などで構築している。広州南越王墓の主室に似ているが、構造はより複雑で完備している。金属をはめこんだ漆塗りの玉棺を使用。金器・玉器・漆器・貨幣78万枚・彩絵陶個222点のほか、金縷玉衣の玉片5、60片が出土している。被葬者は前漢の第五代楚王劉道と考えられる。埋葬年代は前12年、もしくはやや後である。

 満城一・二号漢墓:中山靖王劉勝の夫婦の墓である。一号墓が劉勝の墓で、二号墓はその妻の竇綰の墓。劉勝は前漢の初代の中山王で、42年間在位して、武帝の元鼎四年(前113年)に葬られた。ふたつの墓の形態は基本的に同じで、墓道・甬道・南耳室・北耳室・中室・後室からなる。劉勝墓の甬道と南耳室で実用の車輌6両・馬16匹・狗11匹・鹿1頭が埋葬されていた。出土した銅器に“中山内府”・“卅四年四月”の銘がある。珍しいことに未盗掘で、後室に棺床を設置、上に一棺一槨を置き、墓主は金縷玉衣を着る。室内に多くの宝器があり、側室からは青銅沐盤・盛水銅罍・銅薫炉・烔灯、およびアカスリ石と男僕俑1点が出土した。沐浴の場を象徴しており、後室全体は墓主の生前の後寝を表している。前室には飲食器などが多く、宴会客間を表し、南耳室は厩、北耳室は厨房を象徴する。
 “黄腸題湊”墓の主な特徴は、大量の木材で壁・槨室・棺室を構築することで、地域・時代によって形態に差がある。
 北京市大葆台の広陽頃王劉建夫婦墓:前漢後期の墓。劉建の墓は外部に大木で二重の回廊を構築、その中に15000本余りの木材で墓室を構築、さらに木三面に木板を用いて棺室を囲み、二槨三棺を置く。棺室の前が前室で、漆床・陶器や各種の食品があり、内外回廊には陶器・俑・車馬器・馬・豹などが副葬される。墓道内に大木板で槨室が作られ、三両の実用車馬が置かれる。墓の中から出土した漆器の残片に、針刻で“二十四年五月丙辰丞”とあり、被葬者は広陽頃王劉建と考えられる。
 長沙市象鼻嘴の呉姓長沙王墓:竪穴岩坑の底部にまず白膏泥を塗り、ついで大木板で槨室の底を舗装、その上に槨室・棺室・回廊を形成している。外回廊は隔門で12室および前部門室に分けられ、内回廊は7室および前堂に分けられ、棺室内には三層の套棺を設置。外槨四周には長さ150cm、幅20〜30cmの柏木の木材908本を使用して、巨大な框形の木壁を形成している。
 北京市の老山漢墓:長方形の岩坑の墓道で、封土・墓道・墓坑・墓室で構成され、墓室は平面長方形で、外回廊・題湊・内回廊の三部分からなる。題湊は外回廊内側に位置し、平面長方形、木材を積み重ねて木壁を形成する。内回廊は題湊の内側にあり、墓室を前・後室に分ける。棺槨は後室中間にあり、両槨三棺である。三重の棺は内外に黒漆を塗り、内面には朱砂を塗っている。副葬品は主に前室と内外回廊にあり、漆器・陶器・木俑等がある。これまでに発見された黄腸題湊は多く柏木を用いていたが、ここでは栗など大量の雑木を用いている。墓の年代は前漢中期、墓主は30歳前後、身長160cm前後の女性と考えられ、燕王王后であろう。
 安徽省六安市の双墩一号墓:“中”字形の土坑竪穴墓。墓室の前後にスロープ状の墓道をもつ構造で、墓道の全長は45m。墓室は“黄腸題湊”の構造で、長さ9.1m、幅7m。長さ0.92m、幅O.25m、厚さ0.23mの木材922本で構築、題湊と内槨の間が回廊になる。槨室は重槨重棺、外槨は木槨、槨内外に黒漆が塗られ、内槨は石槨である。内外の棺は長方形で、外は黒、内は朱の漆を塗る。内棺外側に紅色雲紋彩絵。外蔵槨が題湊を“凹”字形に囲み、蓋板を立てて15室に区切られ銅壷・陶壷、大量の模型木器(車・馬・人)が出土。墓室全ての建造に用いられた木材は約240立方mもあり、櫟・檫などと鑑定される。漆器・木器・陶器・銅器・鉄器・車馬器・兵器・鉛器・玉器・封泥など500点以上が出土。銅壺に“共府”の銘、封泥に“六安食丞”とあり、被葬者は武帝の元狩二年(前121年)に六安国に始封された其王劉厭の陵墓とされる。
 山東省長清県の双乳山一号漢墓:封土・墓道・墓室からなる石坑竪穴式木槨墓で、前漢諸侯王墓のもう一つの特徴的な葬制であり、墓道と墓室の間に闕門がある。墓室の総面積は607.5平方m、最深部は22m、墓室と墓道総長は85m、総面積は1447.5平方m、穿った石の量は8800立方mにも達し、巨大な墓道と石坑墓室である。槨室に黄腸題湊はなく、葬具は二槨三棺。銅器・玉器・漆器・鉄器・陶器・金餅・貨幣等2000点もの副葬品がある。墓主は金縷玉衣をもたず、玉覆面・玉枕・玉手握のみをもつ。また馬車5両が出土。金餅には“王”字を刻したものがある。前漢末の代済北王劉寛の墓と考えられ、埋葬年代は武帝の後元二年(前187年)、もしくはやや後である。
 広州市象崗山の南越王墓:大型竪穴岩坑石室墓で、紅砂岩石板で墓室を構築、前室両側耳室は洞を掘って形成している。前室・東西耳室・主室・東西側室・後蔵室からなり、主室に一棺一槨が置かれ、棺内の墓主は絹縷玉衣を着る。東側室に殉葬があり、夫人の璽から婢妾の蔵室と思われる。西側室は犠牲や“厨丞之印”の封泥から、厨房の関係であろう。後蔵室には銅器・陶器が100点以上あり、墓主の宴席を象徴する。前室には木車の部品が多い。東耳室には主に楽器が置かれ、銅鐃に“文帝九年楽府工造第×”の銘がある。両耳室で銅礼器・生活用器・兵器・車馬器・金銀玉飾・絹織物など500点以上が出土。南越王墓の構造は、諸侯墓と共通性もあるが、南越国独特の葬制を示している。出土の印章から、武帝の元朔から元狩年間(前128〜前117年)に死去した第二代南越王“趙昧”の墓と考えられる
 以上から、前漢前期の諸侯王陵墓は、規模が巨大で構造は複雑、後期に規模が縮小していき、構造も簡略になっていくことが分かる。また黄腸石が黄腸木にとって代わる。前漢前期は、諸侯王国の勢力も強大であったが、景帝・武帝はその勢力を削減する政策をとり、王国をいくつかの小国に分割し、政治から遠ざけた。一方、前漢初期には、先秦の儀礼制度を継承し、先秦に萌芽した“黄腸題湊“の葬制を広く用いる。文帝から武帝年間に、漢朝の儀礼が形成され、巨大な労力を要ずる大型崖洞墓が現れる。武帝以後、諸侯王国は衰微し、民間に石室・磚室墓が現れると、石材を用いた黄腸石墓が出現する。

二、後漢諸侯王墓
 後漢諸侯王墓の発見はやや少なく、墓の規模・形態ともに前漢より簡略であり、これは諸侯王が政治に参与しなくなったことと関係している。
 河北省定県の中山簡王劉焉夫婦合葬墓:竪穴土坑磚室墓。墓道・耳室・甬道・前室・後室・回廊からなる。磚室の外に回廊と石壁を設置する特徴をもち、漢代の諸侯王が用いた“黄腸石”の葬制を示している。
 80年代以後、河北省定県北陵頭の中山穆王劉暢夫婦墓、江蘇省徐州市土山鎮の彭城王・王后墓、江蘇省揚州市甘泉山の広陵思王劉荊夫婦合葬墓、山東省淄博市金嶺鎮の斉煬王劉石墓、河南省淮陽県北関鎮の陳頃王劉崇墓、山東省済寧市の任城王・王后墓などが発掘され、これらは後漢前期・中期・後期に分けられ、後漢の諸侯王の葬制研究に重要な資料となっている。
後漢前期】
 劉荊夫婦合葬墓:墓道・墓門・甬道・前室・ふたつの棺室・回廊からなる大型磚券墓。前室は横長形、ふたつの棺室と回廊の間には間隔がない。ふたつの棺室には墓室中部の後ろ寄りに二つの磚室が築かれ、その左・右・後三面に回廊が作られている。棺室・回廊・甬道で、陶磁器や銅器などが出土した。銅雁足灯の底盤口縁に上“山陽邸銅雁足鐙建武廿八年造比十二”の銘がある。“広陵王璽”の金印があり、墓主は永平元年(58年)に山陽王から広陵王に封ぜられた劉荊である。
 斉煬王劉石墓:大型の磚室墓。封土・墓道・甬道・東西耳室・前室・主室(後室)・回廊からなる。主体が磚築のほか、甬道・前室・主室・回廊の内側に基石が一周り舖装されている。東耳室には倉・灶・楼・厠所・猪圏・風車・碓・磨など陶製の模型の明器、甕・鼎などの容器、瓮が置かれていた。また両耳室から鼎・盒・尊・奩などの陶器や石鏡形器・鉄環等が出土している。前室には遺物が少なく、銅灯・承弓器・帯鈎・銅製部品・鉄剣・鉄戟・鉄錛などが出土した。主室は盗掘が激しく、攪乱された土から玉衣片・玉壁・玉環残片・玉璜などが出土した。甬道・前室・主室・回廊内側の基石について、象徴的に黄腸石を表すともいわれ、こういった形態は後漢後期にも継続する。被葬者は、建武二十七年(西暦51年)に斉王に封ぜられ、永平十三年(70年)に死去した後漢の斉煬王劉石と考えられる。
後漢中期】
 淮陽県北関の陳頃王劉崇墓:回廊をもつ磚室多室墓で、墓道・墓門・甬道・左右耳室・前室・後室・回廊からなる。四周は磚積みの回廊で、回廊四隅と東西北の三面に七つの長方形磚室を設置し、門と回廊が通じている。回廊中部の中軸線に沿って甬道・左右耳室・前室・後室が構築されている。石塊で床を舗装し、また甬道壁と後室内壁を作っている。これは新しい形式のもので、前段階を受けて、なおかつ次の段階へと通じるものである。河北省定県の劉焉墓のような外をめぐる黄腸石壁はないが、外部に単独で磚積みの回廊を設けており、これは黄腸題湊の葬制における回廊を碑築で模倣したものである。各種の石俑や動物の模型、宴席を主題とした画像石などが残っている。墓内からは銀縷玉衣片が2000片以上出土した。回廊の壁磚上に“安君寿壁”の銘が模印されている。被葬者は、もと安寿亭侯で、永寧元年(120年)に陳王に封ぜられ、125年に死去した後漢の陳頃王劉崇と考えられる。
 徐州市土山鎮の彭城王・王后墓:後漢中期のやや遅い時期のもので、磚石合築墓である。M1は青磚と黄腸石で構築され、平面 “十”字形を呈している。墓道・封門壁・甬道・前室・後室からなる。墓頂は弧形のドーム状で、床は磚で舗装されている。黄腸石は主に封門と甬道の構築に用いられ、工匠名や黄腸石の順序・方位などが刻銘され、工匠の多くは“官工”二字や“官十四年省”などの銘を冠する。墓の中からは陶製の猪圏・井・壷・罐や金メッキの獣形硯などが出土した。墓主は後室に葬られ、銀縷玉衣が着せられている。墓の中に兵器がないので、おそらく彭城王の王后の墓である。M2は規模がやや大きく、墓道・封門壁・甬道・回廊・題湊石壁・東西耳室・前室・後室からなる。墓の上部に黄腸石を用いて覆いがなされ、厚さは約1m、面積は400平方mに達する。墓室の外に題湊石壁が一周し、平面は方形に近い。東西両耳室には陶製の鶏・鴨・猪などがあった。前室は横長方形、後室は縦長方形、全体で前漢時代の“甲”字形題湊墓に似た構造になる。後室の盗洞から玉衣片が出土。墓主は彭城王と考えられる。
後漢後期】
 河北省定県北陵頭の中山穆王劉暢夫婦墓:大型の磚券墓。墓道・墓門・甬道・左右耳室・前室・中室と二つの後室からなる。二つの後室は劉暢夫婦それぞれの後寝を象徴し、また中室は前堂、前室は庭院を表現する。金器・銀器・銅器・鉄器・玉器・陶器・骨器など1100点以上が残存しており、銀縷玉衣のかけら千数百片が出土した。墓主は後漢の中山穆王劉暢と考えられる。劉暢は141〜174年の在位で、この墓の埋葬年代は熹平三年(174年)と考えられる。
 後漢時代の諸侯王墓を概観すると、前漢の諸侯王のような複雑な葬制はない。後漢前期の主な特徴は外に回廊をめぐらす前後室磚券墓で、黄腸石の有無は被葬者の財力などによって異なる。後漢中期の諸侯王墓には回廊のある多室磚券墓や左右耳室のある前後室磚券墓があり、これは前漢後期以後の中層官吏の墓の形態に回廊を加えたものである。後漢後期の諸侯王墓にいたると、外部の回廊はなくなり、中部は前・中・後の三室となる。こういった三室磚券墓は後漢後期に普遍的に流行するもので、諸侯王だけでなく、河北省保定市の望都一号墓や内モンゴル自治区ホリンゴル県の新店子烏桓校尉墓、河南省密県の打虎亭弘農太守墓など二千石官吏の墓にも多用されており、地方官吏や豪族勢力が発展し、諸侯王は衰退をたどり、墓制に差がなくなったことを表している。

三、曹操高陵と曹操休墓
 曹操高陵:2009年、河南省安陽市西高穴村で発見された。漢代諸侯王墓の発展と比較して、諸侯王の葬制に基づくと分かる。平面“甲”字形を呈し、スロープ状の墓道をもつ双室磚券墓で、墓道・前後室、四つの側室からなる。墓道の長さは39.5m、幅は9.8m、最深部は約15mの深さがある。墓口平面は梯形で、墓室の面積は約380平方m、墓の総面積は約740平方m。前室は方形で、四角錘状の天井をもち、平面長方形の南北側室がある。後室平面も方形で、四角錘状の天井をもつ。平面長方形の南北側室があり、ドーム状の天井をもつ。側室はみな石門で封じられていた。この墓室の構造は、後漢時代の王侯墓に類似しつつも変化があり、後漢から魏晋の過渡的特徴をもつ。形態の最も近い諸侯王墓は、後漢霊帝の熹平三年(174年)死去の中山穆王劉暢夫婦墓であり、西高穴大墓の年代が174年に近いことを暗示する。
 曹休墓:2010年、河南省洛陽市で発見された。曹休曹操の族子で、魏の征東大将軍であり、魏の明帝の太和二年(228年)に死去している。墓坑平面は“十”字形をしている。東西の全長は50.6m、南北の幅は21.Om、深さは10.5m。上口の総面積は約500平方m。墓道・甬道・前室・耳室・北側室・南双側室・後室からなり、みなドーム状の天井をもち、扇形磚を一層横並びに構築している。甬道と各墓室の間の過洞には楔形の磚を二層縦に並べている。墓道の全長は35m、幅は5.4m〜9m。邙山陵墓群は調査によりみな“甲”字形の方坑ドーム墓とされている。発掘された後漢の諸侯王墓からみて、後漢帝陵の墓室はおそらく前室を主体とする回廊墓で、以下の列侯・公卿大夫は一般に“十”字形・“干”字形の方坑ドーム墓で、外回廊がなく、単純な前後室ないし双室墓である。こういった墓葬は洛陽で非常に多く、中原・華北地域で後漢前期後葉から後漢中・後期にかけて流行した。後漢後期にいたり、これらの墓葬は甬道に一室増え、前中後の三室構造になる。曹休墓の形態はこの延長にあり、生前列侯に封ぜられた身分に合致する。曹休曹操より8年おそく死去し、曹操高陵と比較できる墓としては最も年代が近く共通点も多いが、等級上でやはり差も明らかである。
 以上の比較から、曹操墓の年代は曹休墓の年代に近く、その形態は後漢末期の劉暢墓に近い。墓の構造から分析して、西高穴二号大墓の時代的特徴と被葬者の身分は曹操に合致するものであり、出土遺物からみても、被葬者は220年に亡くなった曹操であることは間違いない。


その五につづきます。次回は討論会の質疑を紹介して締めることとします。