曹操の墓を専門家が解説したよ(その二)

その一のつづきです。
いよいよメインディッシュの登場です。曹操墓の発見と認定の経緯の解説です。曹操墓発掘現場の隊長さんこと潘偉斌氏の発表を紹介します。一連の騒ぎではマスコミへの露出もけっこう激しかった人ですね。

曹操高陵の発見と発掘および初歩研究

   潘偉斌(河南省文物考古研究所)
一、曹操高陵の歴史伝説
 曹操の墓の位置については、古くから様々な伝説があった。清の蒲松齢『聊斎志異』の許昌城外説、清の沈松『全健筆録』に引く『堅瓠続集』の漳河の川底説、近代の鄧之斌『骨董瑣記全編』の彭城鎮説などが見られるが、いずれも信用に足るものではない。
 また“七十二疑冢説”があり、『輿図必考』に磁州(現在の河北省磁県)に七十二か所の曹操の偽の墓のあったことが記される。清末民国初にはこの地域は荒れ果て、“七十二疑冢”の多くが盗掘されるが、出土遺物などからみて、多くが北魏北斉時代の王公貴族墓であった。その中には東魏の孝静帝の天子塚や蠕蠕公主墓、北斉の高洋陵墓などが含まれる。
 宋代になると皇帝権力が強化され、忠君思想教育が推し進められ、儒学が盛行する。同時に自朝の正統の地位を確立するため、正統思想の強化が図られる。梟雄曹操は権臣・奸臣の代表人物となっていく。
 “七十二疑冢”の伝説は、王安石の一首「疑冢」詩にはじまる。その内容は、“青山如浪入漳洲、銅雀台西八九丘、螻蟻往還空壟畝、騏麟埋没幾春秋”というものだ。曹操の墓は消えてなくなり、漳河北岸のそれらの墓はみな疑冢だと王安石が言っていると理解された。王安石の詩の中の八九丘は八と九を掛けた七十二の数とされた。宋代後期になって、宋と金が対時すると、江南の宋朝は政治的必要から自らを蜀漢になぞらえ、金朝を国を奪った曹魏に見立てて罵倒した。いっぽうの金朝は曹魏を正統とみなし、曹操を尊崇し、毎年陵墓に赴き曹操を祀った。ただし曹操高陵は地上ではすでに識別できず、金人は勘違いしたまま七十二冢を曹操の墓として祀っていた。加えて年々盛り土が増えていき、様相は著しく変貌する。羅大経『鶴林玉露』巻十五に、“漳河上に七十二冢あり、相伝えて曹操疑冢なりという。北人歳に増してこれを封ず”とある。こうして曹操の奸臣としての色合いは濃くなり、七十二疑冢の説はますます神秘に包まれていった。そして清代の毛宗崗は陶宗儀の『輟耕録』などの資料を根拠に、『三国志通俗演義』の中に“また彰徳府講武城外に疑冢七十二を立て、‘後人に吾を葬するところを知らしむるなかれ、人の発掘するところとなる故を恐れるなり’と遺命した”の一文を加えた。この後、漳河沿いの北朝墓地は曹操の七十二疑冢と言い伝えられるようになる。
 また曹操の墓は故郷の譙県にあったとする亳州老家説もあった。

二、曹操高陵の地理位置
 曹操高陵は河南省安陽市の約15km西北にある安陽県安豊郷西高穴村に位置し、西は太行山脈に依り、北は漳河に臨み、南は南嶺に依り、地勢は高い。『三国志』魏書武帝紀には、「建安二十三年(218年)六月令して曰く、古の葬するものは、必ず瘠薄の地に居す。それ西門豹祠の西原上を規し寿陵をなせ。高きに因りて基となし、封ぜず樹せず」とある。唐の太宗李世民は、貞観十九年(645年)二月、鄴城にて自ら赴いて魏太祖を祀り、自ら「祭魏太祖文」をしたためた。また、唐の李吉甫の『元和郡県図志』相州鄴県の条には、「魏武帝西陵は県の西三十里にあり」とされ、同書には西門豹祠が鄴城の西十五里にあることが記される。

三、曹操高陵の手がかり
 そして近年の研究により曹操高陵について多くの手がかりが得られた。
 その一:1998年4月、漳河南岸で、西高穴村の村民徐玉超が村の西で土取りをしていた際、後趙建武十一年(345年)の大僕卿駙馬都尉魯潜墓誌を掘りあてた。そこには、“墓在高決橋陌西行一千四百廿歩、南下去陌一百七十歩、故魏武帝陵西北角西行卌三歩、北廻至墓明堂二百五十歩”と記載され、これは初めて魏武帝陵の具体的な方角を記したものであった。
 その二:2006年の初め、曹操墓が盗掘され、以後何度も盗掘を受けることとなり、文物も持ち出されてしまった。2008年春には、中央電視台が『尋找曹操墓』を撮影し、盗掘者の持ち出した一枚の“魏武王常所用”石牌の写真を得、筆者に真贋の鑑定を依頼、本物であった。この石牌は、写真の下半分の字跡が不明瞭で、当時はいろいろな読まれ方がされたが、上半分の“魏武王”の三字は極めて明瞭であった。
 その三:公安により石牌や石璧残塊が回収される。また当地の公安により盗掘者の手にあった三つに壊された画像石が回収され、完形に復元された。
 その四:歴史文献記事、すなわち前述の『三国志』、『元和郡県図志』等に見られる曹操高陵の記載である。

四、曹操高陵の発見
 2006年、筆者は自ら盗掘坑から墓室内へ入って調査を行い、この墓葬が後漢後期の王侯クラスの大型墓葬であると確認した。2007年には、魯潜墓誌が出土した地の周囲を調査し、西高穴村の西北約500mにあり西高東低の地勢であることが分かり、また魯潜墓誌出土地の東南500mにあるやや高い台地上に、大型板瓦や宮殿建築の門上に賞着される銅泡釘などが見つかり、宮殿式建築のあったことが判明した。
 これにより筆者は2008年9月に、『台北故宮文物月刊』に「曹操高陵今何在」の論文を発表し、曹操高陵は漳河南岸の河南省安陽県西高穴村にあることを明言し、さらに具体的な位置を西高穴の盗掘された2号大墓に定めた。

五、曹操高陵の考古発掘と成果
 2008年11月、国家文物局の批准を得て、河南省文物局の組織の下、河南省文物考古研究所は即座に考古隊を編制し、2008年12月6日、西高穴墓地内の二基の盗掘を受けた大墓に対する緊急考古発掘を始めた。二基の墓はそれぞれ1号墓、2号墓と編番した。2号墓が件の曹操墓である。
 2号墓(曹操墓)は西から東に向き、方向は約110°である。墓坑平面は前が広い台形で、東側の最も幅の広い部分で22m、西面で19.5m、東西長18m、墓坑総面積は400平方mに達し、墓道を含めた墓葬全体の面積は736平方mにおよぶ。墓葬は、以下のように、墓道・墓門・甬道・墓室・側室などから構成される。
 墓道:墓道はスロープを形成し、全長39.5m、上部幅9.8m、最深部は地表から15m程の深さで、墓道両壁はそれぞれ七段の階梯を形成する。墓門の幅は1.95m、高さ3.02m、頂部はアーチ状であり、三列の磚壁で封じられていた。
 前室:前室平面は方形に近く、東西長3.85m、南北幅3.87m、四角錘状の天井頂部である。その南北両側に側室があり、南側室平面は南北長3.60m、東西幅2.40mの長方形で、アーチ状の天井頂部。北側室平面は、南北長1.83m、東西幅2.79mの東西に長い長方形で、四角錘状の天井頂部である。墓壁の上部に近い位置の四周に四層に等間隔で鉄釘が打たれ、端部が環状になっている。
 後室:後室東西長3.82m、南北幅3.85m、四角錘状の天井頂部である。南北二つの側室をもち、側室南北長はどちらも3.60m、東西幅1.90m-1.92mで、アーチ状の天井頂部である。四壁上に四層に達する鉄釘があり、こちらは端部が鈎状になっている。
 前室出土遺物:前室内では、鎧甲・鉄刀・鉄剣・鏃・弩機部品などの武器類が出土し、石牌に“魏武王常所用挌虎大戟”・“魏武王常所用挌虎短矛”および“魏武王常所用挌虎大刀”の銘のものがある。また、鎏蓋弓帽と車馬器部品などがある。ほかに大量の陶器残片があり、修復された器種には、灶・井・猪圏・鼎・壺・盤・罐・耳杯・三足器・豆・碟・碗・勺などが見られる。さらに、少量ながら青磁器と釉陶器が出土している。前室南側室内で陶俑2点が出土している。前室の門道部に近いところで、男性の頭蓋骨が出土している。圭形の魏武王銘をもつ石牌は全部で8点出土し、いずれも同じ銘のものが2点ずつある。
 後室出土遺物:後室内では鉄鏡・石圭・石璧・漆木器が出土。後室南側室の門道部分では、50数点の刻銘牌が集中して出土。六角形で、上部に穿孔があり、副葬品の名称・数量が刻されており、遣冊の性質をもつ。後室南北側室には、それぞれ木棺一具があり、その四周には鉄製の帳架部品(ジョイント)があった。後室内では二人の女性の頭骨・下顎骨・下肢骨・盆骨などが見られるが、撹乱されている。またその周囲では少量ながら金糸・金ボタン・雲母片・瑪瑙珠・玉珠・翡翠珠・真珠・玉觹および飾り箱の部品が出土している。

六、なぜ曹操墓であるのか?
 2009年11月19日と12月13日、国家文物局により専門家が派遣され、被葬者の身分について詳細な論証が進められ、被葬者は後漢末の魏武王曹操であると認識は一致した。その理由は以下である。
 1、墓葬年代:墓葬の形態的特徴と出土遺物から、年代は後漢後期と認定できる。
 2、王侯クラスの規模、曹操の身分に相当:この墓葬と同時期の墓葬を比較すると、規模は広大で、風格が別格であり、構造は複雑で、埋葬位置が深く、墓道を見るだけでもその一端が分かる。墓道の長さは40m近く、上部の幅は10m近く、最深部が15mの深さにある。その幅を見ても、北斉の開国皇帝高洋の湾漳大墓の二倍以上であり、長さでも10m以上長い。まさに王侯クラスであり、魏武王曹操の身分に相応する。墓室の深さは15mに達し、曹植の『誄文』に描写される“窈窈として弦宇、三光すら入らず”の特徴に符合ずる。
 3、不封不樹、終令に合致:曹操は建安二十三年(218年)六月に、『終令』により “高きに因りて基となし、封ぜず樹せず”と下した。この墓葬の海抜107-103mに位置し、3km外の固岸北朝墓地よりも海抜にして10m高く、“高きに因りて基”とする由に符合する。今回の発掘調査では、墓室上に封土は確認できず、さらに立碑などの痕跡も見つからなかった。これも完全に『終令』の“封ぜず樹せず”の要求に合致する。
 4、文献資料記載の位置と一致:曹操は『終令』において、“古の葬するものは、必ず瘠薄の地に居す。それ西門豹祠の西原上を規し寿陵をなせ”と命ずる。西門豹祠は鄴城故城の西、漳河南岸にあり、現在の漳河大橋から南へ1kmの安陽県安豊郷豊楽鎮にある。『水経注』濁漳水の条には、“漳水また東し武城の南を逕す。……漳水また東北し西門豹祠の前を逕す。祠の東側に碑あり隠起し、字詞堂なりて、東頭の石柱に勒銘していわく、趙建武中に修めるところなり”と記載される。その建造年代は後趙建武年間すなわち335〜348年である。この顕彰石刻は数年前にこの遺跡で実際出土し、現在臨漳県文物保管所に所蔵されている。唐代の『元和郡県図志』相州鄴県の条には、“魏武帝西陵は県の西三十里にあり”と明記され、同書にはまた、西門豹祠が“県の西十五里”にあることが記される。西高穴村から東に14.5kmに鄴城古跡があり、その位置と文献記載の曹操高陵の位置は一致する。
 5、歴史上の明確な記載:実のところ、南朝時代には、曹操の高陵はすでに樹木に覆われ鬱蒼としていたようである。南朝斉の著名な詩人謝朓(464〜499年)は『同謝咨議銅雀台詩』の中で“繐帷飄井幹、樽酒若平生。鬱鬱西陵樹、詎聞歌吹聲”とうたっている。また『銅雀悲』でも “落日高城上、餘光入繐帷。寂寂深松晩、寧知琴瑟悲“とうたう。両地を参観し感慨を得てこれらの詩が作られた。唐代の詩人沈佺期・劉商・李邕らはみな「西陵」詩を作り、劉商はその「西陵」詩の中で、“舉頭君不在、惟見西陵木”とうたう。李邕の「西陵」詩では“西陵望何及、弦管徒在茲”とうたった。
 6、出土文物による傍証:1998年4月、西高穴村村民の徐玉超は村の西はずれで池の土をさらっていたところ、後趙建武十一年(345年)の大僕卿駙馬都尉魯潜墓誌を掘りだした。そこには“墓在高決橋陌西行一千四百廿歩、南下去陌一百七十歩、故魏武帝陵西北角西行卌三歩、北廻至墓明堂二百五十歩”と記されていた。この墓誌は、魏武帝陵の具体的な方位を明確に記した最初の事例であり、魏武帝曹操の墓葬の位置を漳河南岸の西高穴村範囲内と定めるものであった。“魏武王常所用挌虎大刀”石牌や“魏武王常所用慰項石”など盗掘者の持ち出した文物も、この墓葬を曹操墓と確定する傍証となろう。
 7、呼称の一致:曹操爵位は、まず魏公、次に魏王・魏武王となり、後に魏武帝となるという一連の順序は明確である。“魏武王”はこのうちの一時期の呼称である。魏武王の呼称については、歴史文献を見る限り、魏の曹操のことであると分かる。魏武王の最も早い記録は、南朝梁の沈約の編著である『宋書』に見られる。『宋書』巻第二十三志第二十二五行三に、“漢献帝建安二十三年、禿鶖鳥集鄴宮文昌殿後池。明年、魏武王薨”とある。北魏の酈道元『水経注』巻十の濁漳水・清漳水の条には、“魏武王又堨漳水、回流東注、号天井堰“と記載される。この種の記載は他にも多く、『晋書』・『資治通鑑』・『文献通考』・『華陽国志』・『三国会要』などにも見られる。
 8、出土文物による直接の証拠:発掘の過程で、刻銘のある石牌六十数点が出土した。そのうち魏武王の三字が刻まれた銘牌および同種の銘牌が計8点があった。一つは“魏武王常所用挌虎大戟”と刻された最も完形のもので、墓葬前室から出土した。ただし、二つに折れており、二回に分けて出土された。そのうち一つは、南壁から1.40m、西壁から3.75mで、もう一つは西壁から2.70m、南壁から1.15m、墓底からO.50mの高さのところで出土している。これらの石牌の出土位置は明確である。我々考古調査隊によって発掘されたものであり、位置情報などは正確である。そして、被葬者の身分を決める直接的な証拠となる。
 9、遺骨による性別・年齢の一致:墓室では人骨三個体分が発見されており、いずれも撹乱を受けている。そのうち二人の女性の頭骨と肢骨は後室に散在していた。男性の頭骨は前室の大門の甬道附近で発見されており、鑑定により男性の人骨の年齢は60歳前後とされ、魏の武帝曹操が世を去った66歳の年齢に相当する。
 10、魏武王の礼制を表す文物:墓葬では、被葬者の身分を示す大型の圭・壁や鼎など重要な文物も出土している。圭と壁が同時に使用されるのは、帝王の身分の象徴である。また『続漢書』礼儀志下に、天子が“瓦鼎十二“を副葬する由が記されており、曹操墓では12点の陶鼎が出土している。同書には、帝王の墓葬に副葬するものとして、匏勺・瓦案・瓦大杯・小杯・瓦灶・瓦甑・瓦飯槃・瓦酒樽・瓦釜等が挙げられ、この墓葬では全て出土している。帝王の身分を示す龍の造形が多く出土しており、麹勺の柄が龍の頭を為し、画像石・銅帯鈎などに龍の意匠が見られる。また曹操墓出土の鉄鏡は、直径21cmに達し、帝王陵墓に特有のものである。
 11、出土遺物と曹操の遺令“薄葬”の合致:この墓葬は、規模が広大であるが、しかし出土陶器はみな模様もなく、器型も小ぶりで、つくりも粗雑なものである。曹植の『誄文』に“明器に飾なく、陶は素なるをこれを嘉す”の記載に合致する。副葬品のうち金製品などはみな生前の衣服に用いられたもので、入葬の際に特別に製作した金玉器はない。圭・壁などの礼器はみな石製で、『遺令』で定めた“斂するに時服をもってし、金玉珍宝を蔵するなかれ”の記事に合致する。

七、曹操高陵陵園の調査
 我々は、曹操高陵陵園に対し調査を進めた。墓の西部は土取りのため破壊されている。現存部分から、陵園は平面長方形を呈し、南北幅68m、南壁残長110m、北壁残長100mと判明している。1号墓と2号墓の墓道部分に対面して、二つの途切れた部分がある。陵園壁の基槽の形態は南・北で異なっており、北壁基槽は円底で深さ1.2m前後、南壁は平底で、深さ1.1m、基槽の輻は3mとなっている。この他、ボーリング調査により、陵園西側で規模の大きい陪葬墓地が確認され、磚室墓一基が発見されている。

八、曹操高陵発見の意義
 被葬者の身分を確定するため、我々は考古学・歴史学・古文字学・形質人類学の専門家を随時招聘し、論証を進めてきた。そして墓葬の形態・規模・出土文物・銘文内容・宇体・人骨鑑定などに加え、魯潜墓誌と西門豹祠との相互の位置関係、そして文献記載の魏武帝陵の位置などから総合的に判断し、2号墓の被葬者が魏の武帝曹操であり、この墓は魏の武帝曹操の高陵であると認定した。
 その後、社会、学術界に大きなセンセーションを引き起こし、学術界の高い評価を得た。まず中国社会科学院の“2009年度全国六大考古発見”や、国家文物局の“2009年度全国重要考古新発見”に挙げられたほか、河南省文物局・河南省考古学会により“河南省五大考古発見”に、国家文物局・考古雑誌社・中国考古学会等により“2009年度全国十大考古新発見”に選定され、全国収蔵学会により“2009年度全国十大新発見”に挙げられることとなった。現在安陽西高穴曹操高陵は、河南省政府により省級文物保護単位に指定されている。




その三につづきます。次回は郝本性氏の発表を紹介します。