曹操の墓を専門家が解説したよ(その一)

地元・愛媛大学で東アジア古代鉄文化研究センター第3回国際シンポジウム『三国志・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―』 というのがあったので、行ってきました。
http://www.ccr.ehime-u.ac.jp:80/aic/sousousympo.html
白雲翔・潘偉斌・郝本性・張志清の4氏を招いて、曹操の墓(西高穴村2号墓)の発見を中心に、近年の漢魏の考古調査研究を概観するような内容でした。
さて、ブログ記事化するにして、聞いたことの10割を3時間で忘れるトリ頭の記憶を頼っても仕方がないので、99パーセントかた予稿集を参照しました。長文のわりにブログ主は手抜きです。5回くらいのシリーズになる予定。
まず第一回は白雲翔氏の発表から。

漢末・三国時代考古およびその新展開―北方魏を中心に―

   白雲翔(中国社会科学院考古研究所)
一、はじめに
 三国時代は中国史上で大きな転換期であり、魏・蜀・呉の三国が鼎立した。王朝の年代では、曹丕が帝を称して魏が漢に代わる220年から、晋の武帝が即位して西晋が魏に代わる265年までとなる。ただし後漢初平元年(190年)に董卓が少帝を廃し、献帝を立てて長安に遷都してから、社会は事実上分裂割拠の状態で、特に建安元年(196年)、献帝を洛陽から許都に遷都させると、後漢政権は有名無実となる。そのため、研究者は一般に190年の献帝長安遷都を三国時代の上限とする。同時に西晋以後も呉が依然東南を占拠し、太康元年(280年)に晋軍が建業を攻略して呉を滅ぼし、再び全国が統一されるので、これを下限とする。ここから三国時代の考古とは、後漢末から西晋初期(190年〜280年の前後90年)の、三国鼎立時期を主体とする考古学研究といえる。その境域は、魏が北方、蜀が西南、呉が東南にあり、魏の国土・人口・勢力が最大最多で、南は秦嶺−淮河ライン、西北は涼州と西域、東北は遼東一帯におよび、領域は当時の中国の過半を占めていた。また後漢西晋時代も政治・経済の中心は北方にあった。本稿では、魏を中心に三国時代の考古とその展開について見ていく。

二、都城考古
 三国時代、魏は洛陽、蜀は成都、呉は武昌(現在の湖北省鄂城)・建業(229年遷都、現在の南京市)に都した。三国の都城のうち、成都と建業は考古調査が少なく、魏の都であった洛陽・鄴城の調査と研究が主に進展している。
 1.魏洛陽城
 魏の洛陽城は現在の河南省洛陽市の東約15kmの洛陽盆地中部に位置し、北は邙山に依り南は洛河に接し、洛河の北に位置することから洛陽と称される。
 魏洛陽城は、後漢の雒陽城を沿用し改修したものである。光武帝建武元年(25年)に後漢王朝が再建、洛陽を都とする。漢朝は火徳により水を忌むため、“洛”を“雒”に改め、都は“雒陽”と称された。黄初元年(220年)に曹丕は帝を称し、漢に代わり雒陽を首都とする。魏は土徳に属し、水は土に勝るので、再び“雒陽”を“洛陽”と改めた。魏は後漢雒陽城を継承すると同時に、城内に大規模な修築を進める。泰始元年(265年)に晋の武帝司馬炎が魏に代わって帝を称し、西晋を建国した後も、引き続いて洛陽を都城とした。西晋時代には、太廟を営造し城門を新築するほかは、主に魏の宮室建築を用い、都市計画に大きな変化はなかった。
 洛陽城は、四周に広大な版築城壁と護城河をもつ閉鎖的な都市で、南の城壁が洛河の河道の変化で損壊したほかは、東・西・北三面の城壁はなお断続的に遺存している。平面形態は南北に長い不規則長方形で、文献に“城東西六里一十歩、南北九里一百歩”と記される。城壁に多くの屈曲部分があり、ほとんどは城門付近に位置しているが、都市防衛と関連づけることができる。調査によると、東の城壁の全長約3895m、西の城壁の全長約3500m、北の城壁の全長約2523m、城壁の基礎幅14〜25mとなっている。南の城壁を復元した数値を加えると、城壁の周囲の長さは13000mに達し、漢代の三十一里に合致し、城内の総面積は約9.5平方km。城壁外の護城河は、城壁と一定距離を保ちつつ平行ずる。幅は約18〜40m、深さは3〜4m以上。文献からみると、後漢雒陽城と魏洛陽城には12の門があった。北面に2つ、南面に4つ、東・西に3つずつである。後漢と魏の城門の位置に変化はないが、名称に違いがある。魏洛陽城の12の城門は、北面の大夏門・広莫門、東面の建春門・東陽門・清明門、南面の開陽門・平昌門・宣陽門・津陽門、西面の広陽門・西明門・閶闔門となる。構造は、北壁西端の大夏門の探査によると、三つの門道からなり、“一門に三道あり、いわゆる九軌なり”に合う。城内には縦横に交錯する街道があり、街道の間に各種建築が分布する。
 魏洛陽城の城壁・城門・道路の配置の多くは後漢雒陽城から継承しているが、宮殿等の修築に伴い配置に変化が生じている。一つは、漢南宮を排除し、漢北宮を元に洛陽宮を建設したことで、宮内には建始殿・陵雲台・崇華殿(後に“九龍殿”と改名)・太極殿・昭陽殿などの宮室を築造し、芳林園を増築、北宮の東に東宮を建設した。これにより宮殿、苑囿が城内北部に集中し、後漢雒陽城の南宮・北宮の配置を改めることとなる。二つ目は、宮殿区が北部に集中するに従い、南城壁の宣陽門と宮城南門の閶闔門を結ぶ南北方向の銅駝街が城全体の中軸線となり、両側に太廟や太社等の重要建築が配置された。三つ目は、魏の文帝が洛陽城内の西北隅に“百尺楼”を建てたことで、後に魏の明帝が百尺楼を元に金墉城を建設するが、実際には地勢の高い堅固な軍事的城堡であり、洛陽城全体を俯瞰でき、軍事上高所を抑える役割をもつ。この他、西面・北面城壁に外側へ突出する馬面があり、城の防御能力を最大限に増強している。以上の都市計画の変化は、明らかに鄴城の直接的影響を受けている。
 洛陽城南郊には、後漢建武中元元年(56年)に創建され、魏晋時代に沿用された霊台・明堂・辟雍の三大礼制建築、及び建武五年(29年)創建、魏の時に改築された太学がある。洛陽城の探査と発掘では、陶質建築材料が大量に出土しており、特に瓦当は鮮明な時期的特徴を有する。
 2.魏鄴城
 魏の鄴城は204年に建設され、213年に魏の都となる。220年に曹丕が即位し洛陽に遷都した後は、鄴城は魏五都の一つとなる。漳河の氾濫のため、有名な銅雀三台を除き、地上には遺跡が見当たらない。
 考古調査により、平面は南北を軸とする長方形を呈し、東西長2400m、南北幅1700mと判明している。西城壁南段に、西南方向に延びる長さ約300mの城壁があり、城の西南隅が西側に突出する。版築の城壁は、南・東・北の基壇の一部分、および東南角が調査されている。城壁基壇の幅は15〜18mで、後漢末・魏代に築造されたもの。文献によると、鄴北城には7基の城門があり、現在、3基の城門跡が確認されている。東城壁の建春門は、門の幅が22m。南城壁の広陽門、北城壁の広徳門がある。その他はまだ明らかでないが、城内の道路の位置から、西城壁の金明門、南城壁の西から東へ鳳陽門・中陽門・広陽門などがおおよそ推定できる。北城壁西段の厩門については未確認である。
 城内では6条の道路が発見されており、そのうち東西大道は幅13m、金明門と建春門を東西につなぎ、城全体を横断して南北両区に分ける。北区は南区より大きい。東西大道以北に南北方向の道路が2条、以南に南北方向の道路が3条あり、その中間の1本は中陽門大道で、幅約17m、両側の路肩に側溝を有し、城内南北方向の幹線道かつ城全体の中軸線である。東西大道以北の中部一帯に、版築基壇が10か所あり、宮殿区に当たる。宮殿区以西、現在の景隆村西南一帯で4か所の版築基壇が発見されており、最大面積のものは、東西長70m、南北幅40mで、銅爵園の一部であろう。鄴城には銅爵台(銅雀台)・金虎台・冰井台とあり、その基壇は今も地面に高く残る。鄴城内で発見された漢末・魏代の遺物は、主に瓦と瓦当などがある。
 鄴城の配置とその特徴は、金明門―建春門大道を境に城全体が南北両区に二分され、北区は南区より大きい。北区中部は宮殿区、西部は銅爵園を主とする苑囿区、東部は戚里となる。南区は一般の役所と住民の里坊。南区の中陽門大道は、北面に宮殿区と正対し、左右に対称的に鳳陽門大道と広陽門大道が位置し、城全体の中軸線を形成する。鄴城宮殿区は城内北部に集中する。以上のような南北大道を中軸線とした左右対称の都市計画は、中国古代の都城発展史における重要な転換点であり、その後の都城の配置に大きな影響をもたらした。この他、城西北の“三台”は城壁に沿って建設されており、宴席や詩賦をうたう活動場所となっただけでなく、軍事的な意味を持つ砦となるなど、鄴城独特のものである。

三、墓葬考古
 三国時代の墓葬は全国各地で発見されている。北方地域の魏およびその前後の墓葬は、主に黄河下流域及びその周辺の中原地域、河西回廊を中心とする西北地域、遼寧を中心とする東北地域で、それぞれ発見されている。各地域の墓葬には共通する時期的特徴があると同時に、鮮明な地域色も見られる。中原地域の魏及び前後の墓葬では、主に土洞墓と磚室墓の二種類が見られる。
 土洞墓は地下に横向きに掘った墓室で、磚石を用いず多くは単室墓である。洛陽焼溝147号墓は階段式スロープの墓道・通洞・竪井墓道・墓門・封門磚・甫道・墓室で構成される。年代は初平元年(190年)。
 磚室墓はレンガで墓室を築いた規格性のある墓葬である。大・中型の墓葬ではスロープ状の墓道があり、その両側はたいてい階段状に掘り出される。一般に石門を設置する。多室墓と単室墓があり、多室墓は前室と後室だけのものもあれば、前室両側に耳室を付設したもの、前室・後室それぞれに耳室をもつものなどがある。墓内に壁画を描くものもある。副葬品は豊富で、陶製目用器具や模型明器、俑類や金属器・玉器などが見られる。洛陽澗西2035号墓は多室墓で、墓道・墓門・前甬道・前室・左右耳室・後甬道・後室から構成され、年代は魏の正始八年(247年)。2009年に発掘された安陽曹操高陵と2010年発掘の洛陽曹休墓など、全てこういった大型多室磚室墓に属する。
 以上のほか、土洞と磚築が結合した墓葬があり、偃師杏園6号墓は、スロープ状の墓道、墓門・前甬道・前室・左右耳室・後甬道・後室からなり、前室は磚積みアーチ状の墓室で、後室は土洞になっている。

四、社会生活考古
 発掘調査の進展と出土資料の蓄積により、三国時代の社会・文化の研究も次第に発展している。北方地域でも、関連の発見と研究は様々な面で当時の人々の物質生活と精神生活の様子を明らかにしている。
 物質生活の基礎は生業であり、主な古代の生業は農業と手工業である。農業では、当時の北方地域では主に粟・黍・麦・菽類、また稲などの作物を栽培し、牧畜・家畜飼養や果樹・経済作物の栽培を行い、これが農業生産の主なあり方であった。農耕具はすでに鉄器化し、鉄製農具が各所で発見されている。手工業生産に関する遺跡の発見は少ないが、都城跡や墓葬で出土した各材質の遺物は、当時の鉄器・銅器・陶磁器・陶質建築材料・漆器などの製造業や紡織業の発展を物語る。商品交換は経済生活の重要な要素であり、度量衡器と銭幣の出土からその状況が見て取れる。銭幣は小型化が著しく、流通した銭幣は多様化していた。
 衣食住など目常生活に関しては、考古資料の中に具体的な形で現れる。嘉峪関等の魏晋墓で出土した織布の残片は、織物の種類と特徴を明らかにしている。飲食生活は、壁画から当時の様子が分かる一方、出土した四系罐・三足承盤・柱孔甑・扁壺などの飲食器が、時期的特色を鮮明にする。居住生活では、磚瓦など陶質建築材料が大量に発見されており、当時でも上層の人士の住宅は、レンガ造り・瓦葺の構造が主要であったことを表している。長方形食・描座式台灯・帯承盤薫炉などは、当時の家具の時期的特徴である。また、銅鏡には変形四葉紋鏡や連孤紋鏡が多く見られ、交通手段として主に車・馬があった。
 精神文化活動の産物として、墓葬壁画が中原・西北・東北の各地域に普遍的に見られる。その内容は、主に被葬者の画像や、宴席・出行・楼閣など様々な生業や目常生活の図像のほか、日月雲気等の図案が見られる。陶俑も発見されているが、やや数は少なく、一般にサイズが小さく、作りも粗雑になっている。墓中では鎮墓瓶が使用され、その鎮墓文の内容から、当時の人々の宗教信仰と死生観などの精神世界が垣間見れる。

五、おわりに
 三国時代の城跡・墓葬・社会生活などの考古発掘は、いずれも新たな進展があり、そのためこの時代の物質文明・政治文明・精神文明を考古学から語ることが可能になり、三国時代考古のさらなる深化に基礎を打ち立てることとなったが、研究を待つ問題が今なお多い。曹操高陵の発見と関連の諸問題は、三国時代考古に新たな高揚を引き起こすであろう。



三国時代の考古の基礎を解説した発表で、正直いちばん眠たかったです。まあオードブルですね。余談ですが、白雲翔氏は今回招かれた4人の中で唯一日本語がいくらかできるようでした。流暢ではありませんでしたが、最初の挨拶は日本語でしてましたし、2日目の質疑は翻訳を待たずに回答する場面を見受けました。

その二につづきます。次回は曹操墓発掘現場の隊長さんこと潘偉斌氏の発表を紹介します。