曹操の墓キタ━つづき

このへんのつづき。
昨日からずっと曹操のことを考えています。曹操蕩れ〜。(蕩れは萌えの上級語らしい)
いろいろ動画もみたけど、比較的きれいなのを選びました。
http://space.tv.cctv.com/video/VIDE1261891463954885
http://news.cctv.com/society/20091227/103210.shtml
アーチとレンガが特徴のらしい墓ですね。

河南省文物管理局のページをみるに、河南省安陽県安豊郷の西高穴村の墓地について、学者たちが曹操の墓と認定した根拠は次のようなものらしいです。

1.墓葬の規模が巨大で、全長が60メートル近くに及び、レンガ造りの墓室の形態と構造がすでに知られた漢・魏の王侯級の墓葬と類似し、曹操の魏王の身分にふさわしいこと。墓には盛り土が見られず、文献の記載する曹操の陵墓の「高きに因りて基となし、封せず樹せず」の情況に符合すること。

2.墓葬出土の器物や画像石などの遺物が、漢・魏の特徴をそなえもち、年代が符合すること。

3.墓葬の位置は、文献の記載や出土した魯潜墓誌などの史料の記載と完全に一致している。『三国志』魏書武帝紀などの文献の記載によると、曹操は建安二十五年(西暦220年)正月に洛陽で病没し、二月に霊柩が鄴城に運びもどされ、高陵に埋葬された。高陵は「西門豹祠の西原の上にある」。調査資料のあきらかにするところでは、当時の西門豹祠は今日の漳河大橋から南に行くこと一キロのところにあり、安陽県安豊郷豊楽鎮に属している。今回の大墓は西門豹祠の西に位置している。1998年、西高穴村の西で出土した後趙建武十一年(西暦345年)の大僕卿・駙馬都尉の魯潜墓誌にも、魏武帝陵の具体的な位置がこの地であることが明確に記載されている。

4.文献が明確に記載するところでは、曹操は薄葬を主張している。かれが臨終の前に下した「遺令」によると、「遺体は平服でつつみ」、「金玉珍宝をたくわえない」とされるが、今回の墓葬の中身で証明できる。墓葬の規模は小さくないが、墓内の装飾は簡単で、壁画はみえず、ことごとく質朴さをあらわしている。兵器や石枕などには文字があり、みな曹操の平時の「常に用いる所」の器物であることを証明できる。一見精美にみえるわずかな玉器などの装飾品もまた曹操が日常に帯びていた物である。

5.最も確実な証拠は、「魏武王」の銘文が刻まれた石牌と石枕があり、墓主を魏武王曹操と証明できること。文献の記載によると、曹操は生前にまず封ぜられて「魏公」となり、のちに爵位を進めて「魏王」となり、死後の謚号を「武王」とした。その子の曹丕が帝を称した後は追尊されて「武皇帝」となり、「魏武帝」と史称された。出土した石牌と石枕に刻まれた銘は「魏武王」を称しており、ちょうどこれは曹操の葬られたときの呼称である。

6.墓室の中から発見された男性の遺骨は、専門家の鑑定で年齢60歳前後で、曹操の享年の66歳と符合するため、曹操の遺骨とみられること。

やはり「魏武王常所用格虎大戟」と「魏武王常所用慰項石」のインパクトは強かったようです。



西高穴村の墓が曹操の本物の墓だと仮定して、疑問点はいくつかあるんですが、合葬された女性2人がいずれも卞后ではないっぽいのが気になりますね。

そういえば画像石ですが、「神獣」、「七女復仇」などの図案で、「主薄車」、「咸陽令」、「紀梁」、「侍郎」、「宋王車」、「文王十子」、「飲酒人」などの文字が刻まれているとのことで、とくに三国志とからむモチーフの図案ではなさそうでした。