その四のつづきです。
今回は討論会の質疑のメモからまとめに入ります。ICレコーダーでもあれば、もう少ししっかりと内容を起こせるのかも知れませんが、会場で聞いたときのメモ書きを清書しただけなので、断片的でよく分からないと思います。そのへんご容赦を。
潘偉斌:最初盗掘坑から曹操の墓に入ったとき、中には3mほど土がたまっていた。
規格性の高い墓だというのはすぐ分かった。
洛陽の後漢墓との比較で時代が分かる。
古い盗掘坑は西晋時代のものか。
新しい盗掘坑は2006年。
石牌に副葬品の名がすべて残る。
夏侯惇墓があれだけの規模ということはありえない。
石圭の大きさは最大のもの。
郝本性:人骨が後室にあったのは、後室が生活の場、前室が宮殿に見立てられるから。
磚室墓には水が侵入しやすく、人骨が散乱しやすい。
しかし曹操墓のものは揃っていないので、盗掘者の侵入によって動かされた可能性が高い。
西高穴村1号墓(曹操墓は2号墓)の墓主は不明。
基本的に後漢の墓には封土(盛り土)がある。
前漢の墓は山に築かれる。
曹操の墓の「不封不樹」は転換期(過渡期)。
白雲翔:墓に盛り土のない時代は短く、西晋期には再び盛り土が現れる。
潘偉斌:曹操の墓は東向きだが、真東から南に20°ほどずれている。鄴城に向いているのではないか。
安徽省亳州市の曹操の父祖の墓はいずれも東向きだ。
張志清:曹操の遺令は後漢末期の経済状態を反映。
遺令は曹操個人に及ぶのみ。
郝本性:当時の墓には「清単」「遣策」「楬」「衣物疏」といった副葬品のリストがあった。
曹操の墓の石牌は当時の制度や品物の名が分かる貴重な史料。
衣服の名は多く残るが、遺物は腐ってしまって残っていない。
副葬用の冥器を埋葬することもある。
石牌には穴が空いていて、もとはひとまとめにしてあった。
潘偉斌:圭形の石牌の穴に銅製の鎖がついていた。
武器は鹵簿と関係しているのではないか。
郝本性:甲冑については錆を落としていないので、具体的なことは分からない。
曹植が曹丕に曹操のよろいをもらうという記事がある。
曹操が皮のかぶとを被っていたかどうかは、分からない。
白雲翔:古代は青銅鏡が主流だが、魏晋に鉄鏡が流行した。
鉄鏡は身分の高い人物の墓に副葬される。
今回の鉄鏡はもっとも大きいもの。
村上恭通:日本の宮崎県で金の象嵌をした鉄鏡が出土している。
潘偉斌:陶器・土器の修復の過程で、鼎12個が組み上がった。
白雲翔:猪圏などの陶製冥器は皇帝陵にもあるに違いない。
山東省臨沂市の諸侯墓からも猪圏は出土している。
潘偉斌:釉薬のかかった陶器の産地は分からない。
白雲翔:江南のものかと。陶器は高級品として流通していた。
潘偉斌:画像石の主題の「七女復仇」は、かつて「水陸交戦図」と呼ばれていたもの。
父親を殺された7人の娘が、水の中に仇を追いかけていく。
画像石に「杞梁」「首陽山」の字が見える。春秋時代の故事。
今回の曹操墓の発見は、後漢末から魏晋時代にかけてのミッシングリンクを埋める発見。
今後、三国時代の考古に注目される。
さて、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センター国際シンポ『三国志・魏の世界―曹操高陵の発見とその意義―』を5回に分けて紹介してきました。うちのブログでこんな長期(?)連載をしたのは初めてです。
そのうち↓のあたりで公式のレジュメが出るでしょうから、うちの紹介もあまり価値はないものになるとは思いますが。
http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/aic/shuppan.html
今回招かれた4氏はいずれも西高穴村2号墓を曹操の墓とみなす研究者であり、個人の温度差はあっても、やはり一連の曹操墓論争を強く意識していることは聞いていて感じました。ただ曹操墓懐疑論を否定しつつも、ネットから出てきた意見に応答している中から出てきた知見や謎というのもあるらしく、論争そのものは歓迎するという態度を取っておられましたね。
最後にまた蛇足ですが、後で加筆するかもしれません。とくに郝本性氏の講演はレジュメにないことで、面白そうなことをいっぱい喋ってたんですけど、そのへんうまくまとめられてないんですよね。