2018-01-01から1年間の記事一覧

長安の植物園

扶荔宮は上林苑の中にあった。漢の武帝の元鼎六年に南越を破ると、扶茘宮を建てて、得られた奇草異木を植えた。菖蒲(ショウブ)が百本、山薑(ゲットウ)が十本、甘蕉(サトウキビ)が十二本、留求子(シクンシ)が十本、桂(モクセイ)が百本あり、密香(…

代王嘉はなぜ代王を称したのか

戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の…

連鶏の計

353年、殷浩が北伐したとき、江逌がその下で長史をつとめた。殷浩は洛陽を占領したものの、姚襄の裏切りで危地に陥った。殷浩が江逌に姚襄を撃つよう命じると、江逌は鶏数百羽を集めて長繩で連ね、その足に火を繋いだ。鶏たちは解き放たれると、姚襄の陣営に…

6~7世紀の嶺南とかベトナムとか

隋の大業十二年に反乱起こした「高涼通守洗珤徹」(『隋書』煬帝紀下)の洗珤徹と、唐初の「武德三年,廣新二州賊帥高法澄、洗寶徹等並受林士弘節度」(『旧唐書』馮盎伝)の洗宝徹が同一人物というのは、別に目新しい話でもなく、たぶん洗夫人の関係者とい…

李信は燕の太子丹を討ち取ったのか

ここでは久しぶりに書く気がしますが、別に中国史趣味を忘れてしまったわけではなく、ツィッターあたりでちょくちょく書いていました。ただツィッターでは長文がつらいので、今回はこちらで書きます。 以下は首級がどうとかいう話をしているので、そこが苦手…