代王嘉はなぜ代王を称したのか

 戦国時代の末期に趙嘉という人物がいる。趙の悼襄王の長男として生まれ、太子に立てられたが、異母弟の趙遷に太子位を奪われた。悼襄王の死後に趙遷が即位して趙の幽繆王となった(『史記』趙世家悼襄王九年の条)が、紀元前228年に秦の将軍の王翦が趙の都の邯鄲を陥落させる(『史記』秦始皇本紀始皇十八年および十九年の条)と、幽繆王は捕らえられた。このとき趙嘉は代の地に逃れて、自立して王を称した。趙嘉は代王嘉と史称される。代王嘉の政権は紀元前222年に秦の将軍王賁に攻め滅ぼされる(『史記』秦始皇本紀始皇二十五年の条)まで続く。趙の亡命政権として位置づけられる。

 代王嘉についての史料は多くないので、本当に代王を称したのか疑えなくもない。戦国時代の例でいえば、史料上で趙を邯鄲、魏を梁、韓を鄭と記述した例があるように、地名による他称である可能性もある。自称は趙王であったが、代王と他称されたとする考えである。ただ史料的根拠に乏しい以上、この疑念も袋小路でしかない。趙嘉は代王を自称したのだと仮定しておこう。幽繆王が房陵に流されて生存していたために、趙嘉も趙王を称するのを遠慮したのかもしれない。としても、なぜ代王を称したのか。

 戦国時代の趙にとって「代」とは何だったのかを考えてみたい。

 春秋時代の諸侯国に代国があった。「代郡城は、北狄の代国」(『史記正義』匈奴列伝)というから、狄(翟)族系の国であったらしい。春秋晋の趙襄子のとき、趙襄子の姉が先代の代王の夫人としてとついでいた。紀元前457年、趙襄子は代王を宴会に招待し、その場で騙し討ちにして代国を奪った。趙襄子の姉はこれを聞いて自殺している。代にはあらたに趙伯魯の子の趙周が封じられた。これが代成君である。趙伯魯は趙襄子の兄で、早死していたので、その子が君として封じられたものである(『史記』趙世家趙襄子元年の条)

 この代成君の子の浣が趙襄子の太子として立てられ、趙襄子の死後に即位して趙の献侯となっている(『史記』趙世家趙襄子十三年の条)。趙の献侯は中牟を都としたが、趙襄子の弟の趙桓子が献侯を追放して代で自立している。趙桓子は1年で死去し、献侯が復位する。献侯の子の烈侯は「代からやってきた」(『史記』趙世家烈侯六年の条)といわれている。趙の武霊王のとき、武霊王は「代相趙固」を燕に派遣した(『史記』趙世家武霊王十八年の条)とあるので、このときに趙の封侯・封君としての代国は存在したのではないか。武霊王は子の恵文王に位を譲ったが、長子の趙章を代の安陽君とし(『史記』趙世家恵文王三年の条)、さらに趙を二分して代王としようとした(『史記』趙世家恵文王四年の条)。趙国二分は実現せず、趙章は反乱を起こして不幸な結果に終わっているが、ここでも戦国趙における代の重要性が分かる。

 ここまでのところをみると、戦国趙における代には封侯・封君の存在をうかがわせるところがあり、趙氏の庶子が封じられる例が少なくなかったのではないか。戦国末期に趙嘉が代王を称したのも、そうした背景が考えられるのである。