隋の大業十二年に反乱起こした「高涼通守洗珤徹」(『隋書』煬帝紀下)の洗珤徹と、唐初の「武德三年,廣新二州賊帥高法澄、洗寶徹等並受林士弘節度」(『旧唐書』馮盎伝)の洗宝徹が同一人物というのは、別に目新しい話でもなく、たぶん洗夫人の関係者というのもそうだろう。
— NAGAICHI Naoto (@nagaichi3) September 15, 2018
ちな高涼洗氏と長楽馮氏の関係はわりと是々非々やな。
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南朝梁の頃に馮宝と洗夫人が婚姻関係にありますが、隋末唐初の馮盎と洗宝徹は立場を異にしております。
華南にわりと頑丈な宗族による地方支配があって、王朝もそれらの既得権益を追認しておくほうが楽だったので、南朝陳あたりから「羈縻体制」みたいなの(また誤解を生む表現を)が布かれたとおも。
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あまり詳しく書かないし書く力もないが、桂州俚の李氏とか、臨賀の鍾氏とかもそうかなと。
このへんもう少しフォローしておくと、南朝陳といっても欧陽紇の乱の後くらいに浮き出てくるイメージ。
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隋の劉方の林邑(チャンパ)遠征のときに従軍した欽州刺史の甯長真・驩州刺史の李暈・上開府の秦雄といったのがいる。欽州は交州に隣接する広西最西の州で、甯氏は遅くとも甯長真の親の代からそのへんで勢力張ってたみたい。驩州はベトナム中北部の州。劉方は遠征先に近い勢力を動員してたのね。
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劉方も関中から大兵力を引っ張って林邑に遠征したわけではないし、そんなことはたぶん不可能だったのね。
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妄想を加えると、李暈は交州の李仏子の関係者かもなあ…と、同姓以外の根拠ナッシングにおも。
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「寧越郡欽江縣正議大夫之碑」「刺史甯道務墓誌」なんてのがあって、欽州(寧越郡)の甯氏は実は山東あたりから来たことになってるらしい。長楽馮氏も北燕関係者にされてるし、ルーツ系の話は事実かどうかは分からないけど、そう称するのが嶺南では必ずしも不利ではなかったらしい。
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甯氏はいろいろ複雑だが、甯長真個人は隋唐の中央と結ぶことを有利としたのだね。
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交州の李仏子については、『大越史記全書』の整理に引きずられるとマズい気がしていて、「交趾李春」(『隋書』高祖紀開皇十年)とか「交州刺史李幼榮」(『陳書』後主紀至徳元年)とかをどう位置づけるか、誰か考えてほしいと(爆)。暴論をいうと、万春国は本当にあったのかと(危)。
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久しぶりに何か書いたかと思えば、自ツイートのセルフまとめでありました。このへん特に詳しいわけでもないので、専門家に怒られるために書いた雑駁な駄文でかありません。嶺南とベトナムが地続きであったといわんばかりの素人の浅言ですので、ベトナム史に通じた方からの批判を誘い受けでお待ちしております。