施文慶・沈客卿はスケープゴートではないか?

南朝陳の亡国の「奸臣」とされる施文慶・沈客卿についてひとくさり述べておこう。
『陳書』のふたりの列伝は、次のように記録している。

時有沈客卿者,呉興武康人,性便忍酷,為中書舍人,每立異端,唯以刻削百姓為事,由是自進。有施文慶者,呉興烏程人,起自微賤,有吏用,後主拔為主書,遷中書舍人,俄擢為湘州刺史。未及之官,會隋軍來伐,四方州鎮,相繼以聞。文慶、客卿俱掌機密,外有表啟,皆由其呈奏。文慶心絓湘州重鎮,冀欲早行,遂與客卿共為表裏,抑而不言,後主弗之知也,遂以無備,至乎敗國,寔二人之罪。隋軍既入,竝戮之於前闕。

施文慶は呉興郡烏程県の人で、低い身分から起用され、官吏として有能で、後主に抜擢されて主書となり、中書舎人に転じ、まもなく湘州刺史となったが、隋の侵攻のため赴任しなかったとされる。沈客卿にいたっては、呉興郡武康県の人で、中書舎人となったと伝えるのみである。伝が短すぎて事跡がほとんど分からず、まともな伝記とは言い難い。隋軍の侵攻を受け、ふたりは四方の州鎮からの上奏を後主に取り次がず、亡国の原因を作ったと姚思廉は非難している。しかし亡国の原因として挙げるには時期が遅すぎ、敗色が濃くなってからの失態を取り上げて、かれらのみの責任に仕立てているだけなのではないか。

『陳書』後主紀も、非難の言葉を変えただけで、とくに新たな何かを言っているわけではない。

時新除湘州刺史施文慶、中書舍人沈客卿掌機密用事,並抑而不言,故無備禦。

故施文慶、沈客卿之徒,專掌軍國要務,姦黠左道,以裒刻為功,自取身榮,不存國計,是以朝經墮廢,禍生隣國。

『隋書』煬帝紀上では、施文慶・沈客卿のほか、陽慧朗・徐析・曁慧といった人物が同時に処断されたことが分かる。

及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析、尚書都令史曁慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三呉。

陳の滅亡によって後主は処断されず、後主の取り巻きの中から亡国の責任者を選ぶ必要に迫られて、スケープゴートとして選ばれたのが彼らなのではないか。