中国の記録にみえる銅鼓

 銅鼓は日本では東京や九州の国立博物館などで実物を見ることができるが、中国南部から東南アジアにかけて存在していた楽器である。
 『後漢書』馬援伝に「援好騎,善別名馬,於交阯得駱越銅鼓,乃鑄為馬式,還上之」とあり、ヴェトナムの徴側・徴弐の乱を鎮圧して凱旋した馬援が駱越の銅鼓を鹵獲し、これを鋳潰して馬具を作って光武帝に献上したことが見える。
 『晋書』食貨志の東晋武帝太元三年(西暦378年)の詔に「廣州夷人寶貴銅鼓,而州境素不出銅,聞官私賈人皆於此下貪比輪錢斤兩差重,以入廣州,貨與夷人,鑄敗作鼓。其重為禁制,得者科罪」とあり、どうやら広州の少数民族が銅銭を鋳潰して銅鼓を製作していたらしく、これを禁制とした記録が残っている。
 『陳書』欧陽頠伝に「欽南征夷獠,擒陳文徹,所獲不可勝計,獻大銅鼓,累代所無,頠預其功」とあり、南朝梁の将軍の蘭欽が南方の「夷獠」を征討し、陳文徹を捕らえ、大銅鼓を鹵獲して献上したことが見える。『梁書』蘭欽伝では陳文徹は「俚帥」とされている。
 『陳書』華皎伝に「又征伐川洞,多致銅鼓、生口,竝送于京師」とあり、華皎は天嘉年間に湘川の少数民族を討って、銅鼓や生口を鹵獲し、建康に送ったらしい。
 『隋書』地理志下の林邑郡の条に「來者有豪富子女,則以金銀為大釵,執以叩鼓,竟乃留遺主人,名為銅鼓釵」とある。ヴェトナム南部で大釵と鼓を合わせて銅鼓釵と呼んでいたことを記録している。
 『旧唐書』西南蛮伝の東謝蛮の条や『新唐書』南蛮伝下の両爨蛮の条にも銅鼓が見え、中国西南の少数民族も銅鼓を用いていたらしい。
 『隋書』音楽志下の天竺の条には「樂器有鳳首箜篌、琵琶、五弦、笛、銅鼓、毛員鼓、都曇鼓、銅拔、貝等九種,為一部」とある。『旧唐書』音楽志や『新唐書』礼楽志にも同様の記述がみえる。銅鼓は天竺(インド)にまで広がっていたのだろうか。
 『宋史』にも銅鼓を鹵獲した記事はまだ見えるが、『明史』や『清史稿』の銅鼓はもっぱら地名として見えるのみである。