『山月記』の袁傪が将軍だった件

 中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとなった実在の袁傪について述べており、『山月記』の袁傪の人格や毀誉褒貶に一切関わりがないことを特に申し添えておきます。

 さてはじめに袁傪の出自や前半生を語りたいところですが、ほとんど何も分かりません。正史に袁傪の列伝がないので、まとまった伝記というものがないのです。まずは袁傪の出身地が不明です。『全唐文』巻396に見える「姚令公元崇書曹州布衣袁參頓首」の「袁參」が袁傪という説もありまして、これを採るなら曹州(済陰郡)の人になります。ちなみに袁傪の本貫を陳郡(陳州)とするのは、李徴とからむ『宣室志』人虎伝系の説話が生まれて以降の設定のようで、まともな史書には見えません。陳郡袁氏は名族ですので、そういう設定が後付けで作られたのでしょう。

 大唐故東平郡鉅野県令頓丘李府君墓誌銘(李璀墓誌)によると、袁傪は鉅野県令をつとめた李璀の次女を妻に迎えました。ちなみに李璀は748年(天宝7載)に72歳で死去しており、その夫人の博陵崔氏はその翌年に56歳で亡くなっています。

 袁傪が756年(天宝15載)に進士に及第したという説がありますが、これも人虎伝系説話が李徴を天宝15載の進士としており、袁傪が同期とされることからの附会でしょう。袁傪が史書の片隅に名を残したのは、李光弼の部下として袁晁・陳荘・方清の3つの反乱を鎮圧し、軍事的功績を挙げたからです。『新唐書』劉晏伝に「上元、寶應間,如袁晁、陳莊、方清、許欽等亂江淮,十餘年乃定」と粛宗・代宗期の江淮における4つの反乱が挙げられていますが、袁傪はそのうち3つを平定していることになります。まずは台州の袁晁の乱から見ていきましょう。

 『旧唐書』代宗紀宝応元年八月庚午の条に「台州賊袁晁陷台州,連陷浙東州縣」とあるのが、袁晁の乱のはじまりです。代宗紀での袁傪の記述は宝応二年三月丁未の条に「丁未,袁傪破袁晁之眾於浙東」とあり、763年に袁晁の反乱軍を浙東で撃破したという簡潔な記述にとどまっています。

 『旧唐書』王栖曜伝では宝応の次の広徳年間のこととされていますが、「廣德中,草賊袁晁起亂台州,連結郡縣,積眾二十萬,盡有浙江之地。御史中丞袁傪東討,奏栖曜與李長榮為偏將,聯日十餘戰,生擒袁晁」とあります。袁晁が台州で反乱を起こし、20万の人々を集め、浙江全域を領有した。御史中丞の袁傪が東征し、王栖曜と李長栄が偏将となり、連日十数戦して、袁晁を生け捕りにしたというのです。

 李肇『唐国史補』巻上によると、「袁傪之破袁晁擒其偽公卿數十人州縣大具桎梏謂必生致闕下傪曰此惡百姓何足煩人乃各遣笞臀而釋之」といい、袁傪は公卿を称していた袁晁軍の幹部数十人を捕らえると、かれらに桎梏を嵌めて「百姓が人を煩わせおって」といい、その臀部を笞打って釈放させたといいます。心底からの民衆蔑視なのか、それを装った温情なのか、解釈は分かれるかもしれません。

 『全唐詩』巻148にみえる劉長卿の「和袁郎中破賊後軍行過剡中山水謹上太尉」や同巻207にみえる李嘉祐「和袁郎中破賊後經剡縣山水上太尉」や同巻250にみえる皇甫冉「和袁郎中破賊後經剡中山水」といった詩題があります。袁郎中は袁傪を指し、太尉は李光弼を指しています。これらの詩は袁傪が李光弼の部下として袁晁の乱を鎮圧した後、越州剡県の名勝地を李光弼に見せて回ったときのことを詠んだものです。

 さて、烏石山の陳荘の乱・石埭城の方清の乱に進みましょう。

 『文苑英華』巻566の「賀袁傪破賊表」によると、「臣某等言臣等伏見河南副元帥行軍司馬太子右庶子兼御史中丞袁傪露布奏今年五月十七日破石埭城賊方清并降烏石山賊陳莊等徒黨二萬五千五百人者」といい、河南副元帥行軍司馬・太子右庶子・兼御史中丞の官にあった袁傪が石埭城の反乱軍の方清を破り、烏石山の反乱軍の陳荘を降伏させたようです。ちなみに河南副元帥は李光弼の官であり、行軍司馬はその軍事面の副官にあたります。

 『新唐書』地理志五によると、池州秋浦県に烏石山があり、広徳初年に陳荘・方清の反乱軍が拠ったとされています。また同志には、765年(永泰元年)に方清の反乱軍が歙州を陥落させ、766年(永泰2年)に方清の乱が鎮圧されたことがみえます。「賀袁傪破賊表」の「今年」は、766年のこととみるべきでしょう。

 『全唐詩』巻252に袁傪の現存唯一の詩が収録されています。

喜陸侍御破石埭草寇東峰亭賦詩 袁傪
古寺東峰
登臨興有餘
同觀白簡使
新報赤囊書
幾處閒烽堠
千方慶里閭
欣欣夏木長
寂寂晚煙徐
戰罷言歸馬
還師賦出車
因知越范蠡
湖海意何如

 題は「陸侍御が石埭の草寇を破ったのを喜び、東峰亭に詩を賦す」といったところです。陸侍御とは陸渭のことであり、『新唐書』蕭穎士伝に「如李陽、李幼卿、皇甫冉、陸渭等數十人,由奬目,皆為名士」と列せられた名士です。石埭の草寇とは方清率いる石埭城の反乱軍のことです。趙紹祖『涇川金石記』に旧志を引いて「唐御史中丞袁傪命判官殿中侍御史陸渭以石埭寇方清已,以後軍次涇上」というように、陸渭はどうやら袁傪の部下として方清の乱の鎮圧に従事したらしいのです。同じ主題の詩は崔何・王緯・郭澹らにも詠まれており、袁傪をめぐる人間関係がうっすら見えてくるようでもあります。

 ここで袁傪の部下についても簡単に紹介しておきましょう。王栖曜・李長栄・陸渭らについては上述したので繰り返しません。『旧唐書』李自良伝に立伝されている李自良は「後從袁傪討袁晁陳莊賊」といい、袁傪に従って袁晁・陳荘の乱を討ったことが明記されています。『韓愈文集』所収の「崔評事墓銘」には、広徳年間に袁傪が袁晁を討ったとき、崔翰が偏将をつとめたことが見えます。

 さて、『唐僕尚丞郎表』巻18によると、袁傪は777年(大暦12年)から尚書兵部侍郎をつとめていたようです。長安の中央官界に入っても軍務畑からは離れられなかったようです。この年の元載の弾劾取り調べに袁傪ら6人が関わっていたことが、両唐書の元載伝や劉晏伝に見えます。

 最後に袁傪が顔真卿に喧嘩を売った話をしなくてはなりますまい。ことは779年(大暦14年)の話です。『旧唐書』徳宗紀大暦十四年秋七月戊辰朔の条に「秋七月戊辰朔,日有蝕之。禮儀使、吏部尚書顏真卿奏:「列聖諡號,文字繁多,請以初諡為定。」兵部侍郎袁傪議云:「陵廟玉冊已刻,不可輕改。」罷。傪妄奏,不知玉冊皆刻初諡而已」(秋7月1日に日食があった。礼儀使・吏部尚書顔真卿が「列聖の諡号は文字がやたら多いので、初諡によって定めるようお願いします」と上奏した。兵部侍郎の袁傪が「陵廟の玉冊はすでに刻まれているので、軽々しく改めるべきではない」と反論したので、取りやめられた。袁傪の反論は間違いで、玉冊にはみな初諡が刻まれているのを知らなかったのだ)とあります。

 この話は顔真卿伝にもあって、列聖の諡号とは高祖(李淵)以下の七聖の諡号であると分かります。高祖李淵の例でいうなら「神堯大聖大光孝皇帝」とか長いやつですね。顔真卿はこれを初諡の「大武皇帝」に戻そうと提案したのです。袁傪は皇帝陵墓と宗廟の玉冊にはすでに長い当時最新の諡号が刻まれていると勘違いして、ピント外れな反論をおこなったのですが、その反論が通って顔真卿の提案は退けられてしまったのですね。

 顔真卿は書家として有名な人ですが、安史の乱に対する義兵を起こして抵抗した軍事指導者でもありまして、袁傪の旧主である李光弼のライバルでもありました。李光弼は大暦年間にはとっくに亡くなっていましたが、もしかしたら古い確執が尾を引いてこの奇妙で短い論争へと導いたのかもしれません。

 袁傪の晩年と最期については、その前半生と同様に不明です。もし今後に何か新たなことが分かるとするなら、それは袁傪の墓誌が出土したときかもしれません。