「西陽蛮」

 六朝時代の「西陽蛮」は西陽郡の「蛮」、つまりは当時の少数民族であったといっていいだろう。西陽郡は現在の湖北省の東部、黄岡市あたりに置かれた郡である。『宋書』夷蛮伝によると廩君の後裔とされ、西陽郡に巴水・蘄水・希水・赤亭水・西帰水があったため、「五水蛮」ともいったという。

 東晋初期の王敦の部下であった周撫が、王敦の敗北後に鄧嶽とともに逃亡し、「撫遂共入西陽蠻中,蠻酋向蠶納之」(ともに西陽蛮中に入り、蛮の首長の向蠶に迎え入れられた)という記事が『晋書』周撫伝に見える。これが史書における西陽蛮の初出である。西暦324年頃のことである。

 前出の『宋書』夷蛮伝に「元嘉二十八年,西陽蠻殺南川令劉臺,并其家口」とあって、西陽蛮が南川県令を殺害した事件があったことが分かる。同書沈攸之伝に「(元嘉)二十九年,征西陽蠻」とあって、沈攸之による討伐を受けているのは、おそらく前年の事件を受けてのことだろう。さらに同書文帝紀元嘉三十年条に「(春正月)戊子,江州刺史武陵王駿統眾軍伐西陽蠻」といい、武陵王劉駿による討伐を受けている。これらは宋の文帝の治世の末期、西暦451年から453年にかけてのことである。

 『南史』沈慶之伝に「(大明)四年,西陽五水蠻復為寇,慶之以郡公統諸軍討平之」とあって、460年に西陽蛮が反乱を起こし、沈慶之がこれを平定したことが分かる。同書夷貊伝下にその後のことも見える。「孝武大明四年,又遣慶之討西陽蠻 ,大剋獲而反。司馬黑石徒黨三人,其一名智,黑石號曰太公,以為謀主。一人名安陽,號譙王,一人名續之,號梁王。蠻文山羅等討禽續之,為蠻世財所篡,山羅等相率斬世財父子六人。豫州刺史王玄謨遣殿中將軍郭元封慰勞諸蠻,使縛送亡命。蠻乃執智、安陽二人,送詣玄謨。孝武使於壽陽斬之」(孝武帝の大明四年、また沈慶之を派遣して西陽蛮を討たせ、大勝して捕虜を得たが、司馬の黒石が叛いた。黒石の徒党が3人おり、そのひとりの名を智といい、黒石は太公と号して謀主とした。ひとりの名を安陽といい、譙王と号した。ひとりの名を続之といい、梁王と号した。蛮の文山羅らが続之を討ち捕らえたが、蛮の世財に奪われた。文山羅らはあい率いて世財父子6人を斬った。豫州刺史の王玄謨が殿中將軍の郭元封を派遣して諸蛮を慰労し、離反者を捕縛して送らせることにした。蛮はそこで智と安陽のふたりを捕らえて、王玄謨のもとに送らせた。孝武帝は寿陽でふたりを斬らせた)という。

 465年に宋の明帝が即位すると、晋安王劉子勛が尋陽で挙兵したほか、明帝即位に反対する地方の反乱が続出し、明帝は危地に立つこととなる。鵲尾の戦いの後に西陽蛮は明帝の側についたらしい。『宋書』夷蛮伝を少し長いが引用しよう。「西陽蠻田益之、田義之、成邪財、田光興等起義攻郢州,剋之。以益之為輔國將軍,都統四山軍事,又以蠻戶立宋安、光城二郡,以義之為宋安太守,光興為龍驤將軍、光城太守。封益之邊城縣王,食邑四百一十一戶,成邪財陽城縣王,食邑三千戶,益之徵為虎賁中郎將,將軍如故。順帝昇明初,又轉射聲校尉、冠軍將軍。成邪財死,子婆思襲爵,為輔國將軍、武騎常侍」(西陽蛮の田益之・田義之・成邪財・田光興らは義軍を起こして郢州を攻め、これを落とした。田益之を輔国将軍とし、四山の軍事を都統させた。さらに蛮戸をもって宋安・光城の2郡を立て、田義之を宋安太守とし、田光興を龍驤将軍・光城太守とした。田益之を封じて辺城県王とし、411戸を食邑とし、成邪財を陽城県王とし、3000戸を食邑とした。田益之を召し出して輔国将軍のまま虎賁中郎将とした。順帝の昇明初年、田益之はさらに射声校尉・冠軍将軍に転じた。成邪財が死ぬと、子の婆思が爵位を嗣ぎ、輔国将軍・武騎常侍となった)という。

 『南斉書』蛮伝に「宋世封西陽蠻梅蟲生為高山侯,田治生為威山侯,梅加羊為扞山侯」(宋のときに西陽蛮の梅蟲生を高山侯に、田治生を威山侯に、梅加羊を扞山侯に封じた)とある。斉の高帝蕭道成が即位すると、「以治生為輔國將軍、虎賁中郎,轉建寧郡太守,將軍、侯如故」(田治生を輔国将軍・虎賁中郎とした。輔国将軍・威山侯のまま、建寧郡太守に転出させた)。

 さて斉末に『南斉書』蛮伝に「西陽蠻」といい、『魏書』には自身の伝が立てられて「光城蠻」といわれた田益宗が現れる。かれについてはWikipedia記事があるので、そのリンクを示しておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%9B%8A%E5%AE%97
 田益宗は斉から北魏に帰順し、北魏の東豫州刺史となって南朝斉や梁と戦うこととなる。

 田益宗の子の田魯生・田魯賢・田超秀は梁に降り、魯生は梁の北司州刺史に、魯賢は北豫州刺史に、超秀は定州刺史に任じられている(『梁書』安成王秀伝)。

 『隋書』百官志上によると、梁のときに西陽郡に「鎮蠻護軍」が置かれたといい、陳のときに「鎮蠻安遠護軍」が置かれたというから、南朝陳に下っても「西陽蛮」がいたとみていいだろう。隋の開皇初年に西陽郡が廃止されて以降は、「西陽蛮」の活動を見ることができなくなる。

 「西陽蛮」の活動は4世紀から6世紀にかけてと比較的長いが、記録は断片的で、かれらの文化や風俗をほとんど伺い知ることはできない。ただ田益之と田益宗、田魯生と田魯賢のように世代ごとの輩行字と思しきものが見えるところからは、漢族の影響をかなり強く受けていたのかもしれない。