馮毋択と馮無択

史記』始皇本紀の始皇28年の条に、琅邪台石刻を引用して秦の重臣を列記した部分に「倫侯武信侯馮毋擇」があらわれる。また『漢書』馮奉世伝の冒頭近くに「及秦滅六國,而馮亭之後,馮毋擇、馮去疾、馮劫皆為秦將相焉」とある。これらの記述から、秦の重臣に馮毋択(擇)という人物がいたことが分かる

いっぽう『史記』恵景間侯者年表の博成国の段に「(高后)元年四月乙酉,敬侯馮無擇元年」とあり、その侯功として「以悼武王郎中,兵初起,從高祖起豐,攻雍丘,擊項籍,力戰,奉衞悼武王出滎陽,功侯」を挙げている。また『漢書』高惠高后文功臣表には「博成敬侯馮無擇」の段があり、「以悼武王郎中從高祖起豐,攻雍,共擊項籍,力戰,奉悼武王出滎陽,侯」とあるのは、『史記』年表とほぼ同じ記述である。
これらから漢初の功臣に馮無択(擇)という人物がおり、漢の高祖劉邦に起兵の初期から従っていたことが分かる

ところが『漢書』高帝紀上の高祖元年8月の条には、高祖と酈食其の対話として、「曰馮敬,曰是秦將馮無擇子也」と出てくる。ここでは馮無択のほうが秦将になってしまっているのだ。

もしかして馮毋択と馮無択が同一人物である可能性はあるだろうか。同一人物であるならば、秦の重臣だった人物が劉邦の起兵の初期から従っていたということになる。もしそのような特殊な事情があれば、別に記録が残されていてしかるべきだろう。同一人物説はきわめて考えにくい。どうやら別人の混同がありそうで、『漢書』高帝紀の「馮無擇」は「馮毋擇」の誤りであろう。

さて、馮毋択と馮無択はどちらも珍しい名でありながら、輩行字を共有しているように見える。さらには「無」(ない)と「毋」(なかれ)は意味まで似ている。同一人物ではないのだとしても、近しい宗族関係を措定するのは、そう飛躍ではないように思われる

以下蛇足。馮毋択はともかく、馮劫や馮去疾はそろそろ『キングダム』に出てきて良さそうな気がする今日このごろなのであった。