普泰二年

北魏の普泰年号は、前廃帝(節閔帝)元恭の元号であり、西暦531年の2月から10月にかけて用いられたものと解説している記事が多い。Wikipediaの記事などがその例だが、ほかにもいくつか挙げておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E6%B3%B0
http://baike.baidu.com/subview/1101527/6152991.htm
http://www.baike.com/wiki/%E6%99%AE%E6%B3%B0
これらの解説を信じるなら、普泰の紀年で表記される年は「普泰元年」のみしか存在しないはずである。ところが「普泰二年」を記した史料がいくつもあるのである。
『周書』巻1帝紀第1の文帝紀
「普泰二年,爾朱天光東拒齊神武,留弟顯壽鎮長安
『周書』巻39列伝第31の辛慶之伝
「普泰二年,遷平北將軍、太中大夫」
『北史』巻36列伝第24の薛孝通伝
「普泰二年正月乙酉,中書舍人元翽獻酒肴,帝因與元翌及孝通等宴,兼奏絃管,命翽吹笛,帝亦親以和之」
韓震墓誌
「以普泰二年三月廿日窆于成周之西」
維摩疏』巻1題記
「大代普泰二年歳次壬子,三月乙丑朔,二十五日己丑,弟子使持節散騎常侍都督隴西諸軍事車騎大將軍開府儀同三司瓜州刺史東陽王元榮,惟天地妖荒,王路否塞,君臣失利,於茲多載,天子中興,是得遣息叔和詣闕脩定」
李白虎造仏座像」銘文
「普泰二年三月廿三日,佛弟子李白虎,上為七世父母、所生父母、亡弟,造像一區,願從心」
などなどである。
種明かしをしよう。前廃帝元恭は531年4月に爾朱世隆らによって洛陽で擁立され、北魏の年号は普泰と改元される。531年10月、爾朱氏の部下だった高歓が爾朱氏に反旗を翻した。高歓は後廃帝(安定王)元朗を信都の西で皇帝に擁立して、中興の元号を立てた。しかし洛陽には爾朱氏に立てられた前廃帝がなおも在位のままであり、532年4月に退位するまで普泰年号を使い続けていたのである。要するにふたりの北魏皇帝が同時に存在したための矛盾にすぎない。現代においてすら、高歓の擁立した後廃帝を正統とする中興紀年の正朔が取りあげられて、前廃帝の「普泰二年」があたかも非正統のもののように無視されているわけだ。当時の実情を鑑みるなら、532年3月の韓陵の戦いが決着して爾朱氏と高歓の勢力バランスが逆転するまでは、後廃帝政権の中興紀年のほうがよほど少数派であり、前廃帝政権の普泰紀年のほうが多数派の用いていた正朔だったとみるべきだろう。現代の歴史記述がなお後廃帝の正朔を取りあげるのは、勝者が高歓であって、爾朱氏ではなかったからだ。勝てば官軍の歴史を信じる者は、ぜひとも普泰紀年を531年の2月から10月までの数ヶ月に閉じ込めておくべきだろう。