隋末唐初の奸雄(?)李密の貫籍やら一族やら

李密(582-619)は、遼東李氏の一門の人で、曾祖父に北周の柱国・李弼をもち、いわゆる八柱国の一家の出身で、関隴集団中でも有力な家柄の人です。
ただそれで問題がないわけではないというのが、以下につらつら書くことの主旨です。
比較的新しい史料から古いほうへ遡っていくことにします。
まず『新唐書』の李密の伝(巻84 列傳第9)から見てみます。冒頭だけテキトー訳。
「李密は、字を玄邃といい、一字に法主といい、その先祖は遼東襄平の人である。曾祖父は弼といい、魏(西魏)の司徒で、徒何氏の姓を賜り、北周に入って太師となり、魏国公となった。祖父の曜は、邢国公となった。父の寛は、隋の上柱国・蒲山郡公となった。そのまま長安に家をかまえた。」
同じく『新唐書』の表(巻72上 表第12上 宰相世系2上)を見てみます。直系だけ抜き出すと、次のような系譜になります。
「根(後燕の中書令)→宣(鄴郡守、龍驤将軍)→貴(後魏の征東将軍、汝南公)→永(太中大夫)→弼(字は景和、北周の太師、隴西武公)→耀(開府邢国公)→寛(隋の梁州総管、蒲山公)→密(字は玄邃)→知古(右台監察裏行)」
抜き出した部分の前部分では遼東李氏が趙郡李氏の一支族であることが示されており、李密は趙郡李氏のうちの遼東房の出身であると言い換えてもいいことがわかります。ただこの系譜がどの程度信用できるかというと、『新唐書』が宋代の成立であり、宰相世系表じたいも唐末にまとめられたルーツ本をネタ本にしており、単体では信用度の高い史料とは言えないものです。ちなみに李密の祖父の名が耀なのか曜なのか、以下も混乱は深まっていきます。
次に『旧唐書』の李密の伝(巻53 列傳第3)を見ます。これも冒頭だけ。
「李密は、字を玄邃といい、もとは遼東襄平の人であり、魏の司徒の弼の曾孫であった。北周は弼に徒何氏の姓を賜った。祖父の曜は、北周の太保・魏国公であった。父の寛は、隋の上柱国・蒲山公であった。みな当代に名を知られた。うつって京兆長安の人となった。」
微妙な差はありますが、基本線は『新唐書』の李密伝と同じです。
次に『隋書』の李密の伝(巻70 列傳第35)を見ます。やはり冒頭のみ。
「李密は、字を法主といい、真郷公衍の従孫である。祖父の耀は、北周の邢国公となった。父の寛は、驍勇にして善く戦い、才幹は人にすぐれ、北周から隋におよび、数たび将軍を経験して、柱国・蒲山郡公となり、名将を号した。」
次に『北史』李弼伝(巻60 列傳第48)の冒頭を見ます。
「李弼は、字を景和といい、隴西成紀の人である。六世の祖の振は、慕容垂のもとで黄門郎となった。父の永は、魏の太中大夫となり、涼州刺史を贈られた。」
李密の曾祖父の李弼(494-557)ですが、ここでは「隴西成紀の人」になってしまいました。
また、この『北史』には李弼の子孫たちが何人か登場します。李弼の子として李曜、李暉、李衍、李綸、李晏、李椿が現れます。李衍の子として李仲威、李綸の子として李長雅、李晏の子として李憬が現れます。李曜の子が李寛で、李寛の子が李密であるのは、上に同じです。
次に『周書』李弼伝(巻15 列傳第7)の冒頭を見ます。
「李弼は、字を景和といい、遼東襄平の人である。六世の祖の根は、慕容垂のもとで黄門侍郎となった。祖父の貴醜は、平州刺史となった。父の永は、太中大夫となり、涼州刺史を贈られた。」
また「遼東襄平の人」です。六世の祖は李振なのか李根なのか。李弼の祖父は李貴なのか李貴醜なのか。またこの『周書』では李弼の子は李耀、李輝、李衍、李綸、李晏、李椿です。李綸の子は李長雅、李晏の子は李璟です。李耀の子が李寛で、李寛の子が李密です。微妙な字の違いはだんだん気にならなくなってきましたね(笑)。
正史はここまでにしましょう。次に墓誌を挙げていきます。
まず「李密墓誌」(唐上柱国邢国公李君之墓銘)を見ます。
「公は諱が密といい、隴西成紀の人である」
「祖父の曜は、北周の太保・魏国公であった。父の寛は、隋の柱国・蒲山公であった」
「長男は楚に喪い、少女は(欠字2字)」
ここでは「隴西成紀の人」です。李密にも子がいたようですが、長男は夭逝しており、これは李知古とは違う人物のようです。
次に「李椿墓誌」(大隋開府河東公墓誌)です。
「公は諱が椿、字が牽屯といい、隴西敦煌の人である」
「曾祖父の貴は魏の開府・平州刺史・衛尉卿であった。祖父の永は柱国・太傅・河陽公であった」
「太師・太傅・柱国・大将軍・太尉・司徒・司空・趙武公の弼」
「公は弼の第七子であり、別に叔父の大将軍・汝南公の檦の後を継いだ」
次に「崔仲方妻李麗儀墓誌」(范陽公故妻李氏志銘)です。この人は李弼の孫娘であり、李密の叔母にあたる人です。
「夫人は諱を麗儀といい、その先祖は趙国の人である」
「曾祖父の延は魏の太保・恒朔十州諸軍事・恒州刺史・趙郡公であった」
「祖父の弼は太師・大司徒・雍州牧・趙国公であった」
「父の曜は使持節大将軍・雍州牧・蒲山公であった」
「長兄は開府儀同三司・大丞相府中郎・新州刺史・邢国公のいまは亡き鄰である」
「次兄は上大将軍・易州刺史・蒲山公の寛である」
「二番目の叔父は、柱国・襄郢六州諸軍事・襄州刺史・魏国公の暉である」
「四番目の叔父は、上大将軍・敷虢隴介四州刺史・真郷公の衍である」
李麗儀という人自身、正史に登場しないことからみても、けっこう情報が多い墓誌です。先祖が趙国の人とされているのは、遼東李氏が趙郡李氏の一支とされていることからもさほど異とするにあたりません。しかし李弼の父が永ではなく、延と作られていることは注目点です。
最後に「徒何綸墓誌」(周故河陽公徒何墓誌)です。李弼の子の李綸(535-574)の墓誌ですが、李弼が西魏に徒何氏という鮮卑姓を賜ったことと関連して、この墓誌では徒何姓を刻んでいます。
「君は諱を綸、字を毗羅といい、梁城郡泉洪県の人である」
「祖父の永は、鎮西将軍・涼州刺史・河陽郡公であり」
「父の弼は、太師・趙国武公であり」
ここで驚き桃の木なのは、「梁城郡泉洪県」という謎の地名です。『魏書』(巻106上 志第5 地形志上)により、梁城郡は恒州に置かれた郡であることがわかります。恒州は北魏の旧首都であった平城を含む土地です。趙郡李氏でも遼東李氏でも隴西李氏でもない本貫がここに現れてしまいました。
ここらへんで資料が尽きたのでまとめますが、李密の家は本貫は長く趙郡李氏の一支である遼東襄平の李氏を名乗ってきました。しかし隋から初唐にかけての一時期には隴西李氏を称していたこともあるようです。「徒何綸墓誌」に見えるように、もとは平城付近の「梁城郡泉洪県」に住んでいたのかもしれません。
正史や墓誌を複数照らし合わせると、直系では「李永(延)→李弼→李曜(耀)→李寛→李密」はかなり信頼性が高いし、李弼の子に李曜・李暉・李衍・李綸・李椿が実在したのはほぼ間違いないと思われます。
こうして複数の資料から家系図を描くと、『新唐書』宰相世系表は意外と信用できた(?)という結論になるのかもしれません。ただし修正は必要ですし、墓誌にだって作為はある可能性は高いです。ただ唐代の一時期にでっちあげられたと単純にいえることもなさそうです。

追記:李密の先祖についてはたぶん陳寅恪あたりの先行研究があるんだろーけど、見てません。あと山下将司って人の論文があるらしいんだけど、見てません。シロートのやることの限界です。笑って許してプリーズ。