柳亨

唐の柳亨(?-655)の伝が腐女子に喜ばれそうな件。
旧唐書』巻77列伝27をテキトーに簡略化。

柳亨は、蒲州解県の人で、西魏尚書左僕射柳慶の孫である。父の柳旦は、隋の太常少卿・新城県公であった。柳亨は、隋末に熊耳・王屋の二県長を歴任し、李密に仕えた。李密が敗れると唐に降り、駕部郎中に任ぜられた。容貌魁偉で高祖(李淵)に甚だ愛され重用された。帝の外孫である殿中監の竇誕のむすめを妻とした。左衛中郎将に累進し、寿陵県男に封ぜられた。まもなく譴責を受けて邛州刺史として出向させられた。数年のあいだ召されることがなかったが、兄の葬儀のためにたまたま南山で太宗(李世民)の召見を受けて語らい、すこぶる哀れまれた。数日して北門で引見を受け、深く教誨を加えられて、銀青光禄大夫に任ぜられ、光禄少卿を代行した。太宗はかれをさとして「卿(きみ)は人となり交遊が多すぎる。いまこの職を授けるから、落ち着くといい」といった。柳亨は狩猟好きで知られたが、賓客を絶って節倹につとめ、職務に精励した。貞観二十三年(649)、太廟を修復した功績で、金紫光禄大夫を加えられた。太常卿となって、万年宮の幸に従い、岐州刺史を検校した。永徽六年(655)に亡くなり、礼部尚書・幽州都督を贈られ、謚を敬といった。

直接書いてるわけではないけど、なにやら男色な関係を想像してしまった自分の脳味噌が腐ってるのかどうか。