7世紀初頭の郡県制

次のDG-Lawさんの記事を読みながら、記事の主旨と別のところで唸ってしまいました。
受験世界史悪問・難問・奇問集 ver.2015 その3(国立大)&おまけ(nix in desertis)
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/52257971.html

名古屋大学の問題から。どうやら高校世界史では「隋代に州県制へと変わる」と教えているようです。単体の記述としては間違いではないんですが、流れ的には肝腎とはいえないことを端折っています。誤解を生みそうな表現ですし、実際次のような誤解が現にあります。

州県制(世界史の窓)
http://www.y-history.net/appendix/wh0302-037.html

漢代では最終的には郡県制の上に、郡を管轄する州が13州設置され、州−郡−県の三段階で地方が統治されていた。魏晋南北朝になると州の数が増え、その末期には300を越え、中央集権が困難になる一因となっていた。そこで隋では郡を廃止して州が直接県を管轄するように改め、中央集権体制の合理化を図った。唐もこの州県制を継承した。州の州刺史、県の県令という長官と次官は中央から派遣され、それ以下の官吏は現地で長官が任命した。なお唐では全国の州を10の道に分け、玄宗の時代にはさらに15道に分けて州を管轄させ、道州県制となった。

良い解説と言いたいところですが、大間違いが一カ所あります。唐は州県制を採用しましたが、隋の制度を「継承した」わけではないことです。以下は史料に沿ってみていきます。

『隋書』地理志上
「大象二年,通計州二百一十一,郡五百八,縣一千一百二十四」
北周の末年(西暦580年)には、211の州、508の郡、1124の県があったとされています。ただしこれは南朝陳の領域を含んでいません。

『隋書』高祖紀上
「(開皇三年十一月)甲午,罷天下諸郡
『北史』隋本紀上
「(開皇三年十一月)甲午,罷天下諸郡
西暦583年(開皇三年)に隋は郡制を廃止しています。州・郡・県の真ん中の郡がなくなって、州・県の二段階の地方制度になったわけです。ここまではいいでしょう。

『隋書』煬帝紀上
「(大業三年夏四月)壬辰,改州為郡
『北史』隋本紀下
「(大業三年夏四月)壬辰,改州為郡
『隋書』地理志上
「高祖受終,惟新朝政,開皇三年,遂廢諸郡。洎于九載,廓定江表,尋以戶口滋多,析置州縣。煬帝嗣位,又平林邑,更置三州。既而併省諸州,尋即改州為郡,乃置司隸刺史,分部巡察。五年,平定吐谷渾,更置四郡。大凡郡一百九十,縣一千二百五十五,戶八百九十萬七千五百四十六,口四千六百一萬九千九百五十六。墾田五千五百八十五萬四千四十一頃。其邑居道路,山河溝洫,沙磧鹹鹵,丘陵阡陌,皆不預焉。東西九千三百里,南北萬四千八百一十五里,東南皆至於海,西至且末,北至五原,隋氏之盛,極於此也」
さて、西暦607年(大業三年)に隋は州を郡に改めてしまいます。つまりは州県制から郡県制に復古してしまうのです。これはおそらく受験世界史では教えていないことです。

『舊唐書』高祖本紀
「(武德元年五月甲子)罷郡置州,改太守為刺史」
新唐書』高祖本紀
「(武德元年五月甲子)改郡為州,太守為刺史」
『舊唐書』地理志一
「高祖受命之初,改郡為州,太守並稱刺史。其緣邊鎮守及襟帶之地,置總管府,以統軍戎。至武德七年,改總管府為都督府」
新唐書』地理志一
「唐興,高祖改郡為州,太守為刺史,又置都督府以治之,然天下初定,權置州郡頗多」

唐初の西暦618年(武徳元年)に郡が州に改められます。つまりは7世紀初頭まで厳密な意味での郡県制は存在していたのです。もっと多くの史料の細かい地名を洗っていけば、さらに煩雑な議論もできるのですが、ここでは省きます。唐が隋の州県制を継承したのではないことは、明白なのです。

ややこしいことを書きましたが、以上のようなことを高校世界史で教えろとは申しません。あまりにも煩雑で高校生に不要な負担を課すだけですから。ただ問題作成者は中国史上の地方行政制度が一筋縄でないことを理解した上で、慎重な作問をお願いしたいところです。

ちなみに唐の道州県制が生まれるのは、西暦627年(貞観元年)のことです。
『舊唐書』地理志一
「貞觀元年,悉令併省。始於山河形便,分為十道:一曰關內道,二曰河南道,三曰河東道,四曰河北道,五曰山南道,六曰隴右道,七曰淮南道,八曰江南道,九曰劍南道,十曰嶺南道」