ローマ帝国の商人「秦論」は孫権と会見したか


にちらっと書いたことをフォローしておこうと思います。

 『梁書』諸夷伝に

孫權黃武五年,有大秦賈人字秦論來到交趾,交趾太守吳邈遣送詣權,權問方土謠俗,論具以事對。時諸葛恪討丹陽,獲黝、歙短人,論見之曰:「大秦希見此人。」權以男女各十人,差吏會稽劉咸送論,咸於道物故,論乃徑還本國。

とあります。

 また『南史』夷貊伝上に

孫權黃武五年,有大秦賈人字秦論來到交阯,太守吳邈遣送詣權。權問論方土風俗,論具以事對。時諸葛恪討丹陽,獲黝、歙短人。論見之曰:「大秦希見此人。」權以男女各十人,差吏會稽劉咸送論,咸於道物故,乃徑還本國也。

とあります。文にやや異同があるものの、同じ内容と言っていいと思います。

 参考として訳をつけると、

孫権の黄武五年(西暦226年)に大秦の商人で字(あざな)を秦論という者が交阯にやってきた。交趾太守の呉邈が孫権のもとに送り、拝謁させた。孫権が大秦の地理や風俗について訊ねたので、秦論は詳しくそのことについて回答した。ときに諸葛恪が丹陽郡を討伐して、肌が浅黒く体格の小さい人を捕らえた。秦論はこの人を見て「大秦ではこのような人は珍しい」と言った。孫権は男女十人ずつと差吏で会稽郡出身の劉咸をつけて秦論を送らせたが、劉咸は道中で亡くなった。そこで秦論はそのまま本国に帰った。

といったところでしょう。

 

 さて『三国志』を確認しましょう。「呉書」劉繇太史慈士燮伝です。

燮在郡四十餘歲,黃武五年,年九十卒。權以交阯縣遠,乃分合浦以北為廣州,呂岱為刺史。交阯以南為交州,戴良為刺史。又遣陳時代燮為交阯太守。

士燮は交阯郡にあること四十年あまり、黄武五年に九十歳で死去した。孫権は交阯県が遠いことから、合浦県以北を分割して広州とし、呂岱を広州刺史とした。交阯県以南を交州とし、戴良を交州刺史とした。また陳時を派遣して士燮に代わる交阯太守とした。

 ずばり黄武五年に士燮から陳時への交阯太守の交代が起きています。ちなみにこのとき士燮の子の士徽が交阯太守を自称して討伐を受けていたりもしますが、ここでは問題にしなくてよいでしょう。黄武五年に秦論を建業に送った呉邈なる交趾太守は確認できないどころか、全くの別人が太守とされているのです。

 これでは『梁書』『南史』の「秦論」のエピソード自体疑わしいというべきではないでしょうか。少なくとも概説書に史実として載せるのは控えたほうが良さそうに思います。