李信は燕の太子丹を討ち取ったのか
ここでは久しぶりに書く気がしますが、別に中国史趣味を忘れてしまったわけではなく、ツィッターあたりでちょくちょく書いていました。ただツィッターでは長文がつらいので、今回はこちらで書きます。
以下は首級がどうとかいう話をしているので、そこが苦手な方は回れ右してください。お題のとおりの話ですが、いちおう歴史話のつもりでして、原泰久『キングダム』の展開とは一切関係ありませんので、お間違いなきようお願いします。現在のところ李信についての唯一の根史料は司馬遷『史記』でして、そこからしか語り出せないと思います。
『史記』王翦列伝
「秦將李信者,年少壯勇,嘗以兵數千逐燕太子丹至於衍水中,卒破得丹,始皇以為賢勇。」
(秦の将軍の李信は、年若く血気盛んで勇ましく、かつて兵数千をもって燕の太子丹を衍水の中まで追い、ついに丹を破って捕らえたので、始皇はかれを賢く勇敢であるとみなしていた。)
「得丹」というのが生擒とは限らないのですが、李信が燕の太子丹を追撃して破り、「丹を得た」んですね。
『史記』李将軍列伝
「其先曰李信,秦時為將,逐得燕太子丹者也。」
(李広の祖先は李信といい、秦のときに将軍となり、燕の太子丹を追って捕らえた者である。)
やはり李信の手柄を語っているのですが、「燕の太子丹を得た」とされています。
『史記』六国年表
「二十九 秦拔我薊,得太子丹。王徙遼東。」
(燕王喜二十九年、秦が我が薊を抜き、太子丹を捕らえた。王は遼東に移った。)
誰の手柄とも書いていないのですが、やはり「太子丹を得た」とされています。ここまで見た記述では、太子丹がはっきり殺されたように見えないということに注意しておきましょう。
『史記』秦始皇本紀
「二十一年,王賁攻薊。乃益發卒詣王翦軍,遂破燕太子軍,取燕薊城,得太子丹之首。」
(始皇二十一年、王賁が薊を攻めた。そこで始皇はますます兵を動員して王翦の軍に増援し、ついに燕の太子の軍を破り、燕の薊城を取り、太子丹の首級をえた。)
ここで「太子丹之首」(太子丹の首級)が出てくるんですね。ここでの主役は王翦・王賁父子ですが、ここまでみたとおり、秦王政(始皇)二十年から二十一年(紀元前227年〜前226年)にかけての対燕戦に李信が参加していたことは、ほぼ確実視されています。むしろ王賁の参戦のほうが梁玉縄(『史記志疑』巻五)による疑問が入れられていて、六国年表の秦始皇二十一年に「王賁擊楚」とあることから、「王賁攻薊」は「王賁攻荊」の間違いではないかと指摘されてたりします。ただ個人的には梁玉縄説は本紀の文脈的に唐突でおかしい気がしますけれども。
とにかく首級が出てきた以上、残念ながら太子丹が殺されて斬首されたと見るべきなのでしょう。李信の仕業とは書かれていませんが。
『史記』荊軻列伝
「其後李信追丹,丹匿衍水中,燕王乃使使斬太子丹,欲獻之秦。」
(そののち李信が丹を追い,丹は衍水の中に隠れた。燕王はそこで使者に太子丹を斬らせ、秦に献上しようとした。)
最後にいちばん問題な部分を持ってきました。太子丹は戦争責任者として燕王喜の手の者に斬られて、(首級が?)秦に送られそうになるという記述です。これまでとずいぶん違う話になってしまっています。太子丹は李信が捕らえたのではなかったのでしょうか。太子丹(の首級)は秦のものにならなかったのでしょうか。ここを含めた『史記』の記述を全て信用してひとつのストーリーを編み上げることも全く不可能ではないでしょうが、かなりギクシャクしたものになりそうです。歴史解釈として蓋然性が低いというものです。宮崎市定が「説話」(宮崎市定『東洋的古代』中公文庫,pp.185-188)とみなした荊軻列伝の記述を排すると、わりとすっきりとしたストーリーになりそうです。
どう解釈しても一解釈にすぎませんが、当面の結論としては、荊軻列伝の記述には惑わされるべきでないとしておきます。秦王政二十年の暗殺未遂事件に端を発した秦軍の対燕戦は、王翦を主将として辛勝・王賁・李信らが参加したと見ておきます。翌二十一年に秦軍は燕軍主力を破り、薊城を奪います。李信は逃亡する太子丹を衍水で追撃して捕らえます。太子丹は殺されて、首級は咸陽に送られたと考えておきます。(李信が殺ったとは言っていません。くどいながら)