秦の丞相

 『史記』秦本紀によると、秦の武王二年(紀元前309年)に初めて丞相が置かれ、樗里疾と甘茂が左右の丞相となったとされている。『史記』甘茂列伝によると、甘茂が左丞相とされ、樗里子が右丞相とされたとする。1980年に四川省青川県の郝家坪50号墓から出土した木牘には「二年十一月己酉朔朔日,王命丞相戊、内史匽」と記録されていて、ここの丞相戊は甘茂を指すと考えられている。秦本紀に戻ると、昭襄王元年(紀元前306年)に厳君疾が相となっている。厳君疾は樗里疾と同一人物と思われる。この年に甘茂は魏に亡命している。『史記』穰侯列伝に七年(紀元前300年)に樗里疾が死去して魏冄が秦の相となったことが見える。なお『史記』甘茂列伝に向寿が秦の相となったことが見えるが、これがいつの時点のことなのかははっきりしない。

 『史記』秦本紀では、昭襄王九年(紀元前298年)に孟嘗君薛文が秦にやってきて相となったとされている。秦東陵から盗掘された漆豆に「八年相邦薛君、丞相殳」という銘文があり、ここから実際には孟嘗君薛文が昭襄王八年(紀元前299年)の時点で「相邦」(=相国)だったことや、相邦と丞相が別の官として併設されていたらしいことがうかがえる。秦本紀に戻って、十年(紀元前297年)に薛文は罷免されて楼緩が丞相となっている。その楼緩も十二年(紀元前295年)に罷免されて、穰侯魏冄が相となった。二十四年(紀元前283年)に魏冄は罷免されたが、二十六年(紀元前281年)に復帰した。『史記』六国年表によると、魏冄は二十六年に「魏冄復為丞相」とあるのだが、「廿一年相邦冉戈」「卅二年相邦冉戈」といった出土文物からみて、遅くとも二十一年には魏冄は相邦=相国であったとみるべきだろう。

 『史記』范睢列伝の記述によると、昭襄王四十一年(紀元前266年)に宣太后や魏冄らが追放され、范睢が相となった。昭襄王五十二年(紀元前255年)に范睢は王稽の罪に連座して退任した。『史記』蔡沢列伝に范睢が相を免じられた後、蔡沢が秦の相となったことが見える。
 
 『史記』秦本紀には荘襄王元年(紀元前249年)に呂不韋が相国として現れている。続く『史記』秦始皇本紀の冒頭に呂不韋が相となった記述が見えるが、これも相国だろう。九年(紀元前238年)に「相国昌平君、昌文君」が現れるが、これはかなり疑問な記述である。このときの相国はおそらく呂不韋であり、相国が複数人いたとは考えにくいからだ。十年(紀元前237年)に相国呂不韋は嫪毐の乱に連座して罷免された。
 「相邦呂不韋」の銘文を持つ出土文物が複数あることは、以前触れたことがある。
https://nagaichi.hatenablog.com/entry/2019/06/18/221827
 荘襄王元年から始皇十年にかけて呂不韋が相邦=相国であったことは、ほぼ確実かと思われる。

 『史記索隠』秦始皇本紀の始皇九年の条に「昌平君は楚の公子で、(秦の)相に立てられ、後に郢に移されて、項燕が荊王(=楚王)として立てた」とある。呂不韋時代の秦に丞相の官が設置されていた証拠はないが、昌平君と昌文君が左右の丞相をつとめていた可能性はある。

 「十二年丞相啟顛戈」は始皇十二年(紀元前235年)に丞相に啓と顛という人物がいたことを示している。啓と顛が何者なのかは実際には定かではないが、昌平君と昌文君のことではないかとする推測は自然と生まれたようで、啓を昌平君とし、顛を昌文君とみなす説が生まれている。
http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=3546

 岳麓書院蔵秦簡に「十四年四月己丑以來~臣欣與丞相啟、執灋議曰~」とあるように、始皇十四年(紀元前233年)にも啓は丞相の官にあったようだ。

 「十七年丞相啟狀戈」は始皇十七年(紀元前230年)に丞相に啓と状がいたことを示している。啓については前述したが、状とは隗状のことで、後述するように『史記』では隗林と書かれる人物である。

 里耶秦簡に「(廿五年)二月癸丑,丞相啓移南郡軍叚(假)守主~」とあるように、啓は始皇二十五年(紀元前222年)まで丞相の地位にあったようだ。

 「廿六年詔権量銘」に「廿六年,皇帝盡并兼天下~乃詔丞相狀綰~」とあり、秦が斉を滅ぼして秦王政が皇帝を称した始皇二十六年(紀元前221年)には、隗状と王綰が丞相に列していたことがわかる。『史記』秦始皇本紀の始皇二十六年の条には「丞相綰、御史大夫劫、廷尉斯等」とあって、王綰のみで隗林=隗状は見えないが、二十六年に隗状と王綰が左右の丞相に列していたことが分かる史料は、ほかにも「始皇詔方升」「廿六年銅詔版」などがある。

 『史記』秦始皇本紀の始皇二十八年の条が琅邪台刻石の銘文を引いて当時の秦の高官を列記した部分に「丞相隗林、丞相王綰」とある。

 『史記』秦始皇本紀の始皇三十四年に「丞相李斯」。始皇三十七年に「始皇出游。左丞相斯從,右丞相去疾守」とある。去疾とは馮去疾のことである。

 「元年詔権量銘」に「元年制詔丞相斯去疾」とあり、二世元年(紀元前209年)にも李斯と馮去疾が左右の丞相に列していたらしい。『史記』秦始皇本紀の二世元年の条にも「丞相臣斯、臣去疾」が列記されている。また『史記』秦始皇本紀の二世二年の条に「右丞相去疾、左丞相斯」が見える。

 『史記』秦始皇本紀の二世三年冬の条に「趙高為丞相」とあり、二世三年(紀元前207年)、趙高が丞相となっている。丞相の左右のことは見えないから、おそらくは単独で立てられた丞相であり、またおそらく統一王朝たる秦の最後の丞相であるのだろう。ここに書かれたようなことどもが書き換えられるのを待つのが、歴史の楽しみである。