秦の妃

 唐の徐堅『初学記』巻10儲宮部太子妃第四に
「周以天子之正嫡爲王后,秦稱皇帝因稱皇后,以太子之正嫡稱妃,漢因之」
(周は天子の正妻を王后とし、秦が皇帝を称すると、皇帝の正妻を皇后と称した。太子の正妻を妃と称し、漢はこれを継承した)
とある。宋の李昉『太平御覧』巻149皇親部十五太子妃条にも同じ文が見える。
 しかし、そもそも秦が皇帝を称した始皇帝と二世皇帝の代に確認できる太子は胡亥だけである。それも始皇三十七年七月丙寅に始皇帝が沙丘平台で死去した後に、遺詔の偽作によって胡亥が太子に立てられ、咸陽に帰って喪が発せられ、二世皇帝として即位するまでのあいだである(『史記』秦始皇本紀)。この短い期間に太子胡亥の正妻が妃として立てられていたのだろうか。
 ちなみに統一以前の秦には、襄公・竫公・寧公・武公・康公・夷公・昭子・恵文君・安国君(孝文王)など複数の太子が確認できる(『史記』秦本紀)。しかし「妃」は確認できない。安国君(孝文王)の太子時代の正妻は華陽夫人と呼ばれた(『史記呂不韋列伝)が、妃とは呼ばれていない。
 秦の後宮のことは謎のベールにつつまれているが、秦の儲宮のことはさらに謎が深いと言わざるをえない。