秦は楚を荊と呼んだ

 史記三家注のひとつ『史記正義』周本紀に「秦諱楚,改曰荊」(秦は楚を避諱して、荊と改めていった)とある。
 やはり史記三家注のひとつ『史記集解』白起王翦列伝に「徐廣曰秦諱楚故云荊也」(『史記音義』の著者の徐広がいうには、秦は楚を避諱したため、荊といったのだ)ともある。こちらは『史記』白起王翦列伝の本文に「秦使翦子王賁擊荊」(秦は王翦の子の王賁に荊を撃たせた)と記述されていることを受けての注釈である。
 秦の始皇帝の父にあたる荘襄王の諱が子楚といったので、「楚」字が避諱されるのは当然だったわけだ。楚と荊は同じいばらの意味を持つことから、代用されたと考えられている。

 楚を郢と呼んだ例もある。
 『戦国策』秦策四「或為六国説秦王章」に「郢威王聞之」(郢の威王がこれを聞くと)とあり、この郢の威王は楚の威王を指している。「郢楚都也,亦避始皇父諱楚」(郢は楚の都である。また始皇の父の諱の楚を避けている)と注釈されている。趙を邯鄲と呼び、魏を梁と呼び、韓を鄭と呼んだような例が想起されよう。

 

追記:
以上のようなことを書きなぐったその日のうちに、佐藤信弥先生から当然のツッコミご指摘を受けたことを付記しておく。