清華簡「楚居」をテキトーに訳してみた

 季連が初めて隈山(騩山)に降り 、𥤧竆(穴窮)にいたった。前に喬山(驕山)に出て、爰波(爰陂)を宅処とした。汌水をさかのぼり、方山を居処とする盤庚の子と会見した。その娘は妣隹といい、人心を掌握しており、四方に名声が轟いていた。季連は彼女と結婚できると聞いて、随従して盤(泮)に赴いた。ここに𦀚白(𦀚伯)と遠中(遠仲)が生まれた。順調に成長して、先に京宗に居住した。穴酓(穴熊)は遅くして京宗に徙り、ここに妣列を得た。哉水(載水)をさかのぼり、聶耳を屈服させると、妣列を妻に迎え、侸叔と麗季を生んだ。麗季は尋常な出産でなく、帝王切開で生まれ、妣列はこのとき死去したことから、巫咸はその出産を楚とし、今にいたるまで楚人といわれる。酓𢚇(熊狂)にいたってまた京宗に居住した。酓繹(熊繹)と屈𥾡(屈紃)にいたって、鄀嗌を夷屯に徙させた。楩室を作って完成させると、中に入れさせず、鄀人の牛を盗んで祭祀をおこなった。 その主を懼れて、屍を夜間に搬入したため、今にいたるまで尸祭は必ず夜におこなわれるようになった。酓只(熊只)・酓𦨪(熊䵣)・酓樊 (熊樊)および酓錫(熊錫)・酓渠(熊渠)にいたるまで、ことごとく夷屯に居住した。酓渠(熊渠)が発漸に徙居した。酓艾(熊艾)と酓摯(熊摯)にいたるまで発漸に居住した。酓摯(熊摯)は旁屽に徙居した。酓延(熊延)にいたって旁屽から喬多に徙居した。酓甬(熊勇)および酓厳(熊厳)・酓相(熊霜)および酓雪(熊雪)および酓訓(熊徇)・酓咢(熊咢)および若囂(若敖)酓義(熊儀)にいたるまで、みな喬多に居住した。若囂(若敖)酓義(熊儀) が箬に徙居した。焚冒(蚡冒)酓帥(熊帥)にいたって箬から焚に徙居した。宵囂(宵敖)酓鹿(熊鹿)にいたって焚から宵に徙居した。武王酓徹(熊徹)にいたって宵から免に徙居し、このため始めて□□□□□福。人々を免に収容できなかったため、疆郢の陂を埋め立てて人を収容した。このため今にいたるまで郢という。文王にいたって疆郢から淋郢に徙居し、淋郢から為郢に徙居した。再び免郢に徙居し、これを改名して福丘といった。荘囂(荘敖)にいたって福丘から箬郢に徙襲した。成王にいたって箬郢から淋郢に徙襲し、徙□□□□睽郢に居した。穆王にいたって睽郢から為郢に徙襲した。荘王にいたって樊郢に徙襲し、同宮の北に徙居した。若囂(若敖)の禍が起こり、このため承の埜(蒸の野)に徙居し、□□□為郢に徙襲した。龏王(共王)・康王・ 嗣子王(郟敖)にいたるまでみな為郢に居住した。霝王(霊王)にいたって為郢より秦渓(乾渓)の上に徙居し、章華の台を為処とした。競坪王(景平王)が即位すると、なおも秦渓(乾渓)の上に居住していた。卲王(昭王)にいたって秦渓(乾渓)の上から媺郢に徙居し、鶚郢に徙居し、為郢に徙襲した。盍虜(闔閭)が郢に侵入すると、 このため再び秦渓(乾渓)の上に徙居し、再び媺郢に徙襲した。献恵王にいたって媺郢から為郢に徙襲した。白公の禍が起こると、このため淋郢に徙襲し、これを改めて、肥遺といい、梄澫を為処とした。鄢郢に徙居し、吁に徙居した。王太子は邦を再び淋郢とし、王は吁から蔡に徙った。王太子は淋郢から疆郢に徙居した。王は蔡からここにもどった。柬大王は疆郢より藍郢に徙居し、䣙郢に徙居し、𨜻に復帰した。王太子は䣙郢を邦居とし、𨛚郢を為処とした。悼折王(悼哲王)にいたってなお䣙郢に居住していた。中謝の禍が起こると、このため肥遺に徙襲した。邦は大いに衰え、このため鄩郢に徙居した。

 

 「楚居」は清華大学蔵戦国竹簡の一篇で、楚王代々の居処の記録である。
 拙訳にあたっては、
http://www.gwz.fudan.edu.cn/Web/Show/1663
http://chu.yangtzeu.edu.cn/info/1006/1428.htm
あたりを超テキトーに参考にし、面倒くさいところは現代日本語に砕く努力を省いた。
 「~郢」と呼ばれる楚の都が何カ所もあったり、楚王の系譜が『史記』楚世家と異なる箇所があったりするのが、この史料の注目点といえるだろう。