韓王安の捕縛と韓の滅亡

 荊州胡家草場漢簡「歳記」に
「十六年,始為麗邑,作麗山。初書年。破韓得其王,王入吳房」(1538号簡)
「十七年十二月,太后死。五月,韓王来。韓入地于秦」(1535号簡)
といった記述があり、紀元前231年(始皇16年)に秦が韓を破り、その王を捕らえて呉房(不詳)に入れ、紀元前230年(始皇17年)5月に韓王が来朝して韓の地が秦に編入されるという歴史認識が示されています。これは『史記』秦始皇本紀の「十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川」とも、同書六国年表の「十七 內史勝擊得韓王安,盡取其地,置潁川郡」や「九 秦虜王安,秦滅韓」とも異なり、韓王の捕縛と韓の滅亡が2年2段階にまたがっています。これは睡虎地秦墓竹簡「編年記」の「十七年,攻韓」とも異なる認識のようです。