始皇帝はいった「東南に天子の気がある」と

 初唐成立の『南史』宋本紀上に「皇考墓在丹徒之候山,其地秦史所謂曲阿丹徒間有天子氣者也」(宋の武帝劉裕の父の劉翹の墓が丹徒県の候山にあった。その地は『秦史』のいうところの曲阿と丹徒のあいだで、天子の気のあったところである)という一節があります。この下りの『秦史』がまず問題ですが、そうした書題のテキストは近代の彭友生や王蘧常の著作まで下らなければ知られていません。これがもし『史記』の秦本紀や始皇本紀などを指しているのだとしても、『史記』の現行本には「曲阿丹徒間有天子氣者也」というそのままの記述は存在しないのです。劉裕の出自を神聖化するこの記述には、何か元ネタがあるのでしょうか。
 南朝梁に成った『宋書』符瑞志上に「秦始皇帝曰,東南有天子氣。於是東遊以厭之」(秦の始皇帝は「東南に天子の気がある」といった。このため東遊してこれを祓わせた)とあります。これについては後に述べますが、『史記』や『漢書』の記述をもとにしています。
 同じく符瑞志に「初,秦始皇東巡,濟江。望氣者云,五百年後,江東有天子氣出於吳,而金陵之地,有王者之勢。於是秦始皇乃改金陵曰秣陵,鑿北山以絕其勢」(かつて秦の始皇が東巡して長江を渡った。望気者は「五百年後、江東に天子の気があって呉より出る。そのため金陵の地には、王者の勢がある」といった。このため秦の始皇は金陵を秣陵と改めて、北山を穿ってその勢を絶たせた)とあります。始皇帝が長江を渡った東巡は紀元前210年のことで、その「五百年後」は西暦290年ごろとなり、西晋のこととなります。しかしこの「予言」が意図しているのは、孫呉東晋のことで、金陵=建業(建康)を都とする六朝の正統性をオカルト的に補完することでしょう。

 北魏の『水経注』泿水注に「秦時占氣者言,南方有天子氣,始皇發民鑿破此岡,地中出血」(秦のとき、占気者が「南方に天子の気がある」といった。始皇が民を徴発してこの丘を穿ち破らせると、地中から血が出た)とあります。東南が「南方」となっているほか、地中の出血など怪奇色が強まっています。
 『後漢書』郡国志劉昭注は干宝『搜神記』を引いて、「秦始皇東巡,望氣者云,五百年後,江東有天子氣」(秦の始皇が東巡し、望気者は「五百年後、江東に天子の気がある」といった)とあります。始皇東巡と「五百年後」「江東有天子氣」が結びついたのは、東晋のころだったのでしょうか。

 そろそろ「予言」の原型に迫らなくてはなりません。『漢書』高帝紀に「秦始皇帝嘗曰「東南有天子氣」,於是東游以猒當之」とあり、『史記』高祖本紀に「秦始皇帝常曰「東南有天子氣」,於是因東游以厭之」とあるのがそれです。多少の異同はあるものの「五百年後」も「江東」も「曲阿丹徒間」も出てきません。漢の高祖劉邦の本紀で扱われていることでもお気づきかもしれませんが、原型では「東南」は沛県を「天子氣」は劉邦の登極を示唆しているのです。

 ここまで時代をさかのぼりながら見てきましたが、順回しに見ていけば時代をまたぐ複数の人々が話を膨らませながら予言を都合よく再利用している姿も見えてくるでしょう。

 さて、ここまでスルーしてきた「天子氣」とは具体的にどんなものなのかですが、望気者ならぬ常人にはよく分かりません。一説には「五色雲」として現れるものらしいです。