斬白蛇剣

 秦の始皇帝阿房宮や酈山陵(始皇帝陵)の造営のために隠宮徒刑の者七十万人あまりを動員した(『史記』秦始皇本紀始皇三十五年条)。ちなみに隠宮とは従来は宦官のこととされていたが、隠官の誤写で刑期を終えた人を指すという新説が生まれている。
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 ときに漢の高祖劉邦が泗水の亭長だったころである。劉邦は沛県のために酈山に刑徒を送ることとなったが、刑徒の多くが道中で逃散してしまった。劉邦は豊邑の西の沢中に達すると、とどまって酒を飲み、残っていた刑徒を夜間に解放して、「おまえたちは行ってしまえ。俺もここから逃げるとしよう」といった。刑徒の中の壮士で随従を願い出る者が十数人いた。劉邦は酒を飲み、夜のうちに沢中を進み、一人に先を進ませていた。先行させていた者が帰ってきて「前に大蛇がのたくっています。引き返しましょう」と報告した。劉邦は酔っていたので、「壮士が行くのに、何を恐れることがあろうか」といって前進し、剣を抜いて蛇を斬った。蛇は両断され、道は開けた。劉邦はそのまま数里行くと、泥酔して寝てしまった。後にある人が蛇のいたところにやってくると、ひとりの老婆が夜に泣いていた。人がその訳を問うと、老婆は「人がわが子を殺したので、泣いているのだ」と答えた。人が「婆さんの子はどうして殺されたのか」と問うと、老婆は「わしの子は白帝の子で、変化して蛇となって道に横たわっていたが、今さっき赤帝の子に斬られてしまった。そのため泣いているのだ」と答えた(『史記』高祖本紀および『漢書』高帝紀上)。劉邦が大蛇を斬った話であるが、劉邦が赤帝の子で、大蛇は白帝の子だというオカルトな解説が老婆の話によって後付けされている。

 さて、前置きが長くなったが、今回は劉邦が蛇を斬った剣についての話である。この斬蛇剣には次のような由来が伝わっている。

 劉邦の父の太公が若かったころ、長さ三尺の一本の刀を佩いていた。刀の表面の銘字は読むことができなかったが、殷の高宗(武丁)が鬼方を討伐したときに作られたものと伝わっていた。太公が豊・沛の山中に遊んだとき、狭い谷に寓居している鍛冶職人に会った。太公はそのそばで休息して、「何の器を鑄ているのか」と訊ねた。職人は「天子のために剣を鑄ているので、他言してはいけない」と笑っていった。さらには「公の佩剣は雑味があるが、鍛冶で直せば神器となって天下を平定することができるだろう。昴星の精が木気を衰えさせ、火気を盛んにするのを助ける。これは異兆である」といった。太公が了解して爐中に匕首を投げ入れると、三頭の動物を殺して犠牲に祭った。職人は「いつこれを得たのか」と訊ねた。太公は「秦の昭襄王のときにわたしが畦道を進んでいたところ、ひとりの野人が殷のときの霊物だといってくれたのだ」と答えた。職人は完成させた剣を持って太公に与えた。太公が劉邦に与え、劉邦が佩いて白蛇を斬ったのがこの剣である。劉邦が天下を平定すると、剣は宝物庫に仕舞われたが、蔵を警備する者は龍蛇のかたちをした雲のような白気が戸から出るのを目撃した。呂后がこの宝物庫を霊金蔵と改名した。恵帝が即位すると、この宝物庫は禁裏の兵器を貯蔵していることから、名を霊金内府といった(『三輔黄図』巻之六)。

 高祖劉邦が白蛇を斬った剣は、剣の上部に七采の珠と九華の玉がつけられていた。剣を収納した箱は、五色の琉璃で装飾されて、室内を照らした。剣は十二年に一回磨かれるだけだったが、その刃はいつも霜雪のようであった。箱を開けて鞘走らせると、風気と光彩が人を照射した(『西京雑記』巻一)。

 斬蛇剣は前漢後漢・三国魏・西晋の四朝およそ五百年にわたって保管された。おそらく後漢のときに長安から洛陽に移されたのであろう。

 西晋恵帝の元康五年(西暦295年)閏月庚寅、洛陽の武庫に火がかかった。張華は反乱の発生を疑い、まずは守備を固めるよう命じ、その後に消火にあたった。これにより累代の異宝である王莽の頭骨・孔子の履物・漢の高祖が白蛇を断った剣および二百万人器械が一時に焼尽した(『晋書』五行志上)。