内史騰=辛勝説

 鶴間和幸『新説始皇帝学』(KANZEN)が出ています。ムック本の体裁なのですが、秦の統一前後の時代について近年の出土史料にもとづく新研究をフォローしているので、かなり読み応えのある内容です。
 さて、これのp.172に「中国の歴史家の馬非百は、騰について『元和姓纂』『通志』に見える、秦の将軍辛騰のことではないかとしています」とありました。内史騰=辛騰とする説があるのですね。初めて知りました。さて辛騰とは、誰でしょう。
 『通志』巻26氏族略第二に「秦有將軍辛騰家中山苦陘曾孫蒲漢初以豪族徙隴西狄道」とあります。訳をつけるなら「秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県(現在の河北省定州市邢邑鎮)に家があった。曽孫の辛蒲が漢初に豪族として隴西郡狄道県(現在の甘粛省臨洮県の西南)に移住した」といったところでしょう。
 『通志』は南宋の鄭樵の著した制度史書です。辛騰についての初出は、おそらく唐代後期に書かれた『元和姓纂』のほうでしょう。
 『元和姓纂』巻3には「秦有将軍辛騰家中山苦陘曾孫蒲漢有辛武賢」とあります。訳をつけるなら「秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県に家があった。曽孫は辛蒲。漢に辛武賢があった」といったところです。
 辛武賢は『漢書』宣帝紀によると、紀元前61年に酒泉太守から破羌将軍となった人です。同書に立伝されている辛慶忌の父ですね。辛騰が前漢の武臣である辛武賢・辛慶忌父子の祖先として唐宋以降の史料にはじめて名と貫籍だけ記録された存在であるとするならまともにはあつかえません。古今東西、後世の系譜史料ほどいい加減なものはないからです。
 ただし、内史騰=辛騰の説はここからが本番です。
 『資治通鑑』巻6に「十七年内史勝滅韓」とあるように、内史騰は内史勝と書かれることがあります。記事の内容からして『資治通鑑』の内史勝が『史記』秦始皇本紀始皇十七年条の内史騰と同一人物であることを疑う人はまずいないでしょう。
 ここで『史記』秦始皇本紀始皇二十年条にある「而使王翦、辛勝攻燕」の辛勝が注目されます。内史騰が内史勝と表記されることがあるなら、辛騰と辛勝も同一人物ではないのか。そして内史勝は辛勝の官名による別表記であり、内史騰(内史勝)は辛勝であり、辛騰ではないのかというのが、内史騰=辛勝説あるいは内史騰=辛騰説です。とりあえず説明としてはハマっているかと思いますし、事実である可能性は否定できません。ただ確証を得るには史料が少なすぎるでしょうが。