『世本』にみえる2字の氏

日経のWEB記事で次のようなものが出ていました。
中国・韓国はなぜ1文字? 世界の「名字の謎」日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXBZO46851290T01C12A0000000/

全体として1文字の名字が圧倒的に多い(司馬、欧陽など2文字の名字もまれには存在する)。森岡さんによると、中国人の名字は少数民族も含めて4000程度とされ、10万から30万はあるとされる日本人の名字に比べるとかなり少ない。
「中国の漢民族は世界でも最も早く名字ができた民族といわれるが、伝統的に漢字1字の単姓を基本としており、日本のように自分で地名などから名字を名乗ったり、分家した際に名字を変えたりすることがなかった。だから、名字の種類も増えなかったのではないか」と推測する。

「伝統的に漢字1字の単姓を基本として」いたのは確かなんですが、事情はもう少し複雑ではないかと思い、書いておこうと思います。
そもそも戦国時代以前の中国では、姓と氏の区別があり、このふたつは古くは別物でした。「姓は大宗、氏は小宗」と言われ、宗族の大規模な単位と小規模な単位を区別する名称と考えればいいでしょう。姓には子・己・任・姒・姫・姜・羋・嬴などがあり、氏には趙・田・陳・呂・荀・孔・夏・屈などなどがあります。地名(国名)を氏として称している例も少なくありません。時代が下ると、この姓氏の区別はあいまいになり、多くは氏をもって姓を称するようになります。現在では子姓とか姒姓とか嬴姓とかを名乗っている人はまず見かけないと思います。
さてここで紹介するのは、『世本』という先秦史料です。戦国時代の趙国の史書といわれているものですが、南宋のときに散逸して、諸書に引用された断片を後世に蒐集して現在に伝わっているものです。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E6%9C%AC
この『世本』が春秋戦国時代のアッパークラスな人々の姓や氏をわりと保存しているのです。『世本』を見ると、2字の氏というのは結構あったことが分かります。いくつか紹介してみましょう。

西陵氏。春秋のときに大夫の西陵羔があった。
袪葛氏。有熊の後裔。宋の景公のときに袪葛祈があり、大夫となった。
融夷氏。祝融の後裔の董父の後胤。
右史氏。古代には史記の事を右した。周に右史武があった。
季隨氏。晋に祁邑の大夫の季瓜忽があった。宋に季隨逢があった。周の八士の季隨季騧の後裔。
司城氏。陳の哀公の子の邾勝の後裔。
闘門氏。陳闘父の後裔。楚の大夫に闘門陽があった。
右師氏。宋の荘公が公子中を生んだ。世に右師となり、よってこれを氏とした。
子蕩氏。宋の威公が子蕩を生んだ。よってこれを氏とした。
不夷氏。宋の大夫の不夷甫須の後裔。
東郷氏。宋の大夫の東郷為人の後裔。
西郷氏。宋の大夫の西郷錯の後裔。
子革氏。宋の司城の子革の後裔。
季老氏。宋の華氏に華季老があった。子孫が氏とした。
榦献氏。宋の司徒の華定の後裔が榦献氏となった。
甫爽氏。宋の大夫甫爽の後裔。
少施氏。魯の恵公の子の施父の後裔。
鼓方氏。鼓方叔の後裔。
子革氏。季平子の支孫が子革氏となった。
公牽氏。斉の公子成の後裔。
斉季氏。魯に大夫の斉季窺があった。むかし斉の公子の季奔が楚に走った。楚でついに斉季氏を号した。
唐孫氏。斉の大夫の長孫修が唐を食邑とした。その孫が晋に仕えた。後に唐孫氏を号した。
尹文氏。斉に尹文子があり、著書は五篇あった。
車遽氏。斉の臨淄の大夫の車遽氏。
子工氏。斉の頃公の子の公子子工の後裔。
子献氏。陳桓子の孫の子献の後裔。
子尚氏。陳僖子の生んだ廩邱の子の尚意茲。よってこれを氏とした。
子芒氏。陳僖子の生んだ子の芒盈。よってこれを氏とした。
子泉氏。斉の頃公の子の公子湫、字は子泉の後裔。
子乾氏。斉の公子都、字は子乾の後裔。
子占氏。陳桓子の生んだ書、字は子占の後裔。
廩邱氏。斉の大夫の廩邱子の後裔。
子穆氏。僖子の子の子穆安の後裔。
子沮氏。烈子の後裔。
虞邱氏。
梁邱氏。
史晁氏。衛の史晁の後裔。
子彊氏。衛公の族の昭子郢の後裔。
将軍氏。衛の霊公の子の公子郢。文子才芳を生んだ。将軍氏となった。
司寇氏。衛の霊公の子の公子郢の後裔。郢の子孫が衛の司寇となったため、官をもって氏とした。
彊梁氏。衛の将軍文子が慎子会を生んだ。疆梁を生んだ。よってこれを氏とした。
司功氏。晋の大夫の司功景子。その祖先は士匄の弟である。官により氏とした。周に太史司功騎があった。
中行氏。晋の荀逝敖が桓子林父を生んだ。中行を率い、中行氏となった。
季嬰氏。晋の楼季嬰の後裔。
伯宗氏。晋の孫伯起が伯宗を生んだ。よってこれを氏とした。
叔夙氏。羊舌職が叔夙を生んだ。叔夙氏となった。
叔向氏。晋の羊舌肸は、字を叔向といった。よってこれを氏とした。
莢成氏。晋の大夫の莢成僖の子。
季夙氏。晋の靖侯の孫の季夙の後裔。
大戊氏。晋の公子大戊教昭が原大夫となった。
韓言氏。姫姓。晋の韓厥が無忌を生んだ。無忌が襄を生んだ。襄が子魚を生んだ。韓言氏となった。
韓余氏。韓宣の子の余子の後裔。よってこれを氏とした。
大狐氏。晋の大夫の大狐伯が突生饒を生んだ。大狐氏となった。その後裔の大狐容が晋の大夫となった。
狐邱氏。晋の大夫の狐邱林の後裔。
郄州氏。晋の郄豹の孫の歩揚が郄州を生んだ。よってこれを氏とした。
小狐氏。
大戎氏。
楚季氏。楚の若敖が楚季を生んだ。よってこれを氏とした。陳の大夫に楚季融があった。
季融氏。楚の闘廉が季融を生んだ。子孫がこれを氏とした。
子午氏。楚の公子午の後裔。斉の大夫に子午明があった。
闘強氏。羋姓。若敖が闘強を生んだ。よってこれを氏とした。
闘班氏。羋姓。闘彊が班を生んだ。よってこれを氏とした。
慶父氏。楚の大夫の慶父の後裔。慶父籍は楚の上工正となった。
大季氏。鄭の穆公の生んだ大季の子の孔志父の後裔。
去疾氏。鄭の穆公の子の去疾の後裔。去疾は、字を子良といい、また良氏があった。
公金氏。秦の公子金の後裔。
仲行氏。秦の三良の仲行の後裔。
差師氏。魏の公族に差師氏があった。

ええと、くどいですね(汗;)。これでも多少端折っているのですが。もちろんここには出していない1字の氏の例もたくさんあるのですが、こう並べると春秋戦国時代に存在した2字の氏の多さに驚きます。これが漢代になると、2字の氏はわずかな例外を除いて見なくなり、現代のわれわれがよく知る漢民族の百字姓の世界に近くなります。『春秋左氏伝』の世界と『漢書』の世界のあいだでは、姓名呼称が大きく変容しているということになります。戦国時代末から秦代のあたりに大きな姓氏制度の改革でもあったのかと疑いたくなります。
また古代中国にも「地名などから名字を名乗ったり、分家した際に名字を変えたりする」例が氏についてはいくつも存在したことは明らかです。日経記事の森岡さんの「推測」は正確さを欠いていると思います。

ちなみに南北朝時代北朝にもまた複姓が多数現れるのですが、別の話になりますので、またの機会にでも。