始皇帝に仕えたベトナム人

秦が六国を併呑し、秦王が皇帝と称した。ときに我が交趾郡慈廉県の人である李翁仲は、身長が二丈三尺あった。若いときに郷邑に赴いて力役を供したことがあったが、長官に笞打たれた。そのため秦に入国して仕え、司隷校尉にのぼった。始皇帝が天下を得ると、翁仲に命じて兵を率い臨洮を守らせた。翁仲の名声は匈奴にも鳴り響いたが、老いて郷里に帰り、亡くなった。始皇帝は翁仲を特別視して、銅を鋳造してその像を作らせ、咸陽の司馬門に置いた。その腹の中に数十人を収容して、像を揺り動かすと、匈奴は校尉が生きているものとみなして、あえて侵犯しなかった。

唐の趙昌が交州都護となると、夜ごとに翁仲と『春秋左氏伝』を講義する夢を見た。そのため趙昌は翁仲の旧宅を訪ねると、旧宅が現存していたので、祠を立てて祭をとりおこなった。高駢が南詔を破ったとき、翁仲の霊が現れてその征戦を助けた。高駢は翁仲の祠の建物を改修し、木の立像を彫って李校尉と呼んだ。その神祠は慈廉県の瑞香社にあった。

大越史記全書』外紀巻之一

 

 

全体として荒唐無稽なところが多く、あまり信用できないエピソードではある。細かいことをいえば、秦代に司隷校尉という官があったかどうかは疑問である。漢代の司隷は秦代には内史と呼ばれていた。

臨洮の地名や銅像を作ったくだりは始皇帝の十二金人を思い起こさせる。十二金人をめぐる異説のひとつと位置づけるべきかもしれない。