ヒョウ公

麃公については、『史記』に二カ所のみ見える。秦始皇本紀に「麃公等為將軍(麃公らを将軍とした)」および「二年,麃公將卒攻卷(始皇二年、麃公が兵士を率いて巻を攻めた)」とある。
諸注釈を引いておく。
史記集解』「応劭曰く、麃は秦の邑なり」
史記索隠』「麃公は蓋し麃邑の公。史は其の姓名を失するなり」
史記正義』「麃は彼苗の反。蓋し秦の県邑なり。大夫が公を称するは、楚制の若し」
史記会注考証』「沈濤曰く、漢韓勅碑の陰に、『故涿郡太守の魯の麃次公、故楽安相の魯の麃季公』と有り。秦漢の時自ら麃姓有り。史は特に其の名を失するのみ。公は樅公泄公の公の如し」
麃公とは、邑の名を取ったもので、個人名ではないことになる。公は公爵というわけではなく、大夫の異称である。魯の出身の麃氏という話もあるようだ。