内史騰は韓の降将なのか

 Wikipedia日本語版「内史騰」記事を読んでいたら、現行版(2020-08-05T15:24:26の版)に
「紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。」
と書かれていました。
 中文版の「內史騰」記事にも、
「秦王政十六年(前231年),韓王安獻出南陽一帶的土地(今河南境王屋山(太行山餘脈)南、黃河以北地區)向秦稱臣。同年九月,秦王政委任韓國降將騰(後來的內史騰)代理南陽守一職。」
とあります。内史騰は韓から秦に降伏した将軍で、韓から南陽の地を譲られて秦の南陽郡が立てられると、南陽郡守の代行とされたという解釈ですね。

 これらの記述の根拠となる『史記』秦始皇本紀始皇十六年の条には
「十六年九月,發卒受地韓南陽假守騰」
とあります。
 この箇所をちくま『史記』(ちくま文庫I巻p.142)は
「十六年九月、卒を発し、韓の南陽の地を受け、内史の騰を仮の守とした」と訳しています。ちくま訳が「内史」を勝手に補っていることは、ひとまず不問にしておきますが、騰が韓の出身者という文脈を読むことはできません。

 さて、現存最古のテクストである黄善夫本の宋版史記
https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/sohanshiki/h-172-9
の13コマ目を見ると、
「十六年九月ニ卒ヲ發地ヲ韓ノ南陽ノ假リノ守騰ニ受」
と読んでいるらしいことが分かります。現代語的に読むなら「十六年九月に兵を発し、地を韓の南陽の仮の守の騰から受けとった」というあたりですかね。
 騰が韓の南陽仮守であるという解釈なことと、騰が韓から降ったとははっきり書かれていないことがわかります。ただ続く始皇十七年の条に「十七年,內史騰攻韓,得韓王安,盡納其地」とあることから、韓の南陽仮守騰と韓を滅ぼした秦の内史騰を同一人物とみなし、韓から降ったとみなす解釈は十分ありえます。内史が官名なのだとすれば、韓からの降伏者を一年ほどで首都の長官に昇任させたことになりますが、秦はたびたび外国出身者を相邦・丞相の高位に登用している国ですので、全く不自然でありえないとは言えません。

 瀧川亀太郎『史記会注考証』は「卒を発し、韓の南陽の地を受け、内史騰を仮守とした」とする方苞の説を挙げており、ちくま訳はこちらの解釈を踏襲しているんですね。

 現時点の結論としては、解釈は複数あり、内史騰を韓の降将とするのも一説としてありえるというところです。